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平成23年11月 第2460号(11月2日)

高等教育の明日 われら大学人〈16〉
  俳優で演出家は大阪芸術大教授
  浜畑 賢吉さん(69)

  齢(よわい)69、青春の真っ只中にいる。かつて自らが演じた人気ドラマの主人公の教師のように―。俳優であり、演出家の浜畑賢吉さんは、現在、大阪芸術大学(塚本邦彦学長、大阪府南河内郡河南町)の教授・舞台芸術学科長を務める。劇団俳優座養成所の第15期生の一人で、同期には夏八木勲、原田芳雄、栗原小巻、前田吟、林隆三、地井武男らがいた。俳優座養成所修了後、1966年に劇団四季入団。ミュージカルスターとしての人気を得る一方、68年のテレビドラマ『進め!青春』で主人公の新米教師・高木進を演じて一躍脚光を浴びた。その後も、舞台やテレビの時代劇などで活躍した。大学では、「勉強なんてするな」、「努力するなんて言うな」と、過激なことを言い続けている。「嫌なことを勉強する、辛いけど努力するのなら今すぐやめなさい。舞台の仕事というのは、好きでたまらない人だけが生き残る社会なんだ」。熱血教師ぶりは健在だ。浜畑先生は、どのような教授生活を送っているのだろうか。

自分の才能を信じろ!!
頭を常に柔軟に 「人間教育」で学生指導

 先祖は薩摩藩の貿易商で大久保利通と親しかったという。父親の話から始まった。「父は傑物でした。19歳で一旗揚げようとメキシコへ。その後ハワイで邦字紙を発行するなど事業を展開。スパイと疑われたのか、強制送還されて帰国、東京で珈琲輸入や運送業など手広く事業を行っていました」
 1942年、東京・深川で生まれた。どんな子どもでした?「3歳半まで福島県の小名浜に疎開、田舎生活が刷り込まれました。昆虫が大好きで野山を飛び回っていました。愛想笑いをしない、社会性のない子どもでした」
 大学は東海大学工学部へ。「中学校ではカメラ、高校ではバスケットに熱中しました。絶対服従の父から理工学部に行くよう言われて…。しかし、志望の文学部に行っていたら考古学に夢中になり俳優にはなっていなかったのではないか」
 俳優座養成所に進んだのは?「洋画の『悲しみは空の彼方へ』で、黒人歌手(マヘリア・ジャクソン)が歌うシーンに泣くほど感動。人の心を動かす歌をやろう、と決めました。大好きだった歌手のハリー・ベラフォンテが演劇学校出身と知って、俳優座を志願」
 俳優座では「花の15期」と呼ばれたそうですが…。「僕以外は、大学などで芝居の経験者でした。彼らに負けまい、この道で生き残るんだ、と遊び、煙草、酒は封印、彼女もつくらないと退路を断って過しました」
 俳優座養成所を修了後、直ちに劇団四季に入団。テレビの青春物や時代劇で人気者に。俳優人生は30年に及ぶ劇団四季の時代が大きな位置を占める。脚光を浴びた俳優としての恍惚と不安を聞かせてください。
 「芝居やミュージカルなどの舞台は勿論、厳しい劇団経営の為に外でも稼ごうとテレビドラマなどにたくさん出演しました。俳優業だけをしていればいい、という比較的自由な日々でしたが、個人的には、様々なストレスがありました」
 2004年から大阪芸大舞台芸術学科教授となり、05年に学科長に就任。大学教授になったきっかけは?「大学から誘われた際、客員教授を希望したが、専任になって週三日通って下さいと言われた。決められた以上、舞台の仕事を減らしても引き受けるしかないと覚悟を決めた。学科長も、なりたくてなった訳ではない。普通の先生のほうがいい」
 こう付け加えた。「教員になったとき、今までの経験を踏まえて教育とは何かを考えた。気になったのは教鞭という言葉。鞭を持って教えるなんて芸術の世界にあってはならない。脅したら萎縮し頑なになるばかりで良い効果はありません」
 学生とは、どのように接していますか?「よく、自分には才能がないからと嘆く学生がいるが、若者で才能のない人なんていません。大切なのは頭を柔軟にすること。そして自分の才能を信じて、稽古場で目いっぱい揉まれること。一人ひとりの人間形成をサポートするのが私たちの役目だと考えています」
 大阪芸術大学は、1957年に創立の総合芸術大学。2学部(芸術学部、通信教育学部)、3分野(造形、音楽、メディア芸術)、15学科に約6000人の学生が学ぶ。卒業生には、俳優の渡辺いっけい、筧利夫、時任三郎、歌手の世良公則、小説家の中島らもらがいる。
 舞台芸術学科は、実技を通して演技力や演出力を磨くのに重点を置く。1年次では演技表現の基礎となる体力づくりや発声練習、感情の表し方、セリフ術などを学ぶ。2年次には学内公演、3年次は学外公演、4年次には卒業公演がある
 「舞台芸術学科は、『一つの劇団』。演技や技術はもちろん、挨拶や礼儀作法など、あたりまえのことをきちんとできる『人間教育』を基本に置いています。それが学科のモットーであり、舞台人として、社会人としてもっとも大切な資質であると考えています」
 教員になってよかったと思うことを具体的に?「入学時にまるで覇気のなかった学生が、一年後にはキラキラして自主的にトレーニングしている姿も沢山見かけます。学内を胸を張って、自信満々に歩き回っています。やる気になった若者は眼の輝きが違って来ます。
 逆のケースもあるという。「途中で悩み、迷い、辞めたくなる学生も出てくるので、よく話を聞いてやります。私自身の長い経験や昔の仲間の状況もたくさん見て来ましたから、若者の悩みはほとんどインプットされています。15分も話すとケロッと明るい顔で帰って行きます」
 舞台芸術学科の学生の卒業後の生活は保障されていない。「昔から変わりませんが、アルバイトしながら俳優や舞台人をめざす人がほとんど。知己のいる劇団や制作会社に頭を下げて、俳優としてあるいはスタッフとして所属させて貰えるように頼んだりします。演出家志望の学生を、私が演出する舞台のスタッフとして使い、しっかり定着してくれたときはうれしかった」
貧困な国の文化行政
 このもどかしさは、憤怒に変わる。「この国の文化行政は貧困だ。学生たちはかなりの能力を秘めながら、卒業した後は放り出され、食べる事に追われて本物に育っていかない。それが日本文化の現状だ」
 どうすればいいのか?「彼らにとって大事なのは、まず食べて行くこと、レッスンを続けること、そして発表の場を持つことです。私が大阪に居られる間に、若者たちにそんな場を残していきたいというのが、今一番の望みです」
 浜畑さんの現在の生活は、一週間のうち三日は大阪の大学での講義、あとの四日が自宅のある東京での生活。「大学で教えながら、ミュージカルやオペラの演出もやっています。東京にいるのはわずかで、全国を飛び回っています」
 豊富な俳優経験を生かして、ミュージカル「アプローズ」(前田美波里・貴城けい出演)を演出、高い評価を得た。今年はミュージカル「ビクター・ビクトリア」(貴城けい出演)の演出をする一方、奈良や四国の高松で市民オペラも手掛けた。
 最後に、学生にエールを送ってください。「今の子はハングリーじゃないからと大人は言います。そうさせたのは我々大人。ならばハングリーにさせてやればいいのです。私は常に“感動する”ことで自分のハングリー精神を培ってきましたから、学生もその道へ誘っています」
 感動するとは?「絵や映画を見る、音楽に身をゆだねる、美味しいものを食べる、歴史を感ずる、素敵な人に出会う。そんな能動的な感動もあれば、失敗や反省や失恋など、否定的なことすら感動の一部にしてしまえばいい」
俳優の現場に戻りたい
 浜畑さんの夢は?「早く俳優の現場に戻りたい。学科は形が出来て、学生もイキイキしてきた。誰かに任せて大丈夫だ。さきほどの話を続ければ、私は未だにハングリーのままなんです。舞台への情熱の炎は消えたことがありません。その炎の燃料は、まさに感動なんです」。永遠の舞台人は、これからも夢を追い続ける。感動を胸に抱えながら。

 はまはた けんきち 東京都出身。都立広尾高校を経て東海大学工学部機械工学科を中退。俳優座養成所を経て、劇団四季の「カラマーゾフの兄弟」で舞台デビュー。「ハムレット」「コーラス ライン」「ジキルとハイド」などに出演、ミュージカルスターとしての人気を不動とする。テレビドラマでは「進め!青春」で脚光を浴び、NHKの「男は度胸」で主役を演じる。NHKの大河ドラマは、「天と地と」(1969年)、「国盗り物語」(1973年)、「勝海舟」(1974年)、「黄金の日日」(1978年)に出演。2004年4月、大阪芸大舞台芸術学科教授となり、05年4月にから学科長に。妻は女優の上村香子。


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