平成23年5月 第2442号(5月18日)
■大学改革に哲学はあるのか
教育哲学が考える大学改革 (3)
政策/「ポリシー」
これまでみてきたように、現在の大学改革では、その教育観や大学像に関して機能主義的な傾向が強まっている。教育哲学はそれに批判の眼を向ける。ただしその批判は、単なるあら探しに終わってはならない。改革の現状を批判することで、オルタナティヴを創出する。そして大学とその教育に関する新たな「ポリシー」の基盤を提供することをめざす。
ここではあえて、ポリシーということばを使っている。「政策」という日本語には、どうしても公共政策というニュアンスが強い。しかしポリシーは、それのみならず広く行動・活動の方針や原則を意味する。教育が意図的な活動であるとすれば、個々の教育実践、それらを組織的に編成している教育プログラムや教育機関、さらには教育制度全体と、様々なレベルにポリシーが存在するはずである。最近では各大学において、アドミッション、カリキュラム、ディプロマの各ポリシーが策定・公表されるようになっている。したがってこの用語も、次第に定着するようになっていると言えよう。
エヴィデンス
ところで近年、「エヴィデンス・ベイスド・ポリシー」ということが強調されるようになっている。ポリシー・政策が、科学的根拠にもとづかなければならない、と。
ただししばしば誤解されていることがある。数値などの経験的・実証的データを示せばそれがエヴィデンスになる、との誤解である。データはそのままでは根拠にはならない。データが何を表し意味しているのか、という解釈や説明、すなわち理論が必要である。
たとえば国際的学力調査における数学的能力の順位の低下は、そのままで数学教育を強化・改善しようとするポリシーの根拠とはならない。この調査が何をめざして行われたものなのか、それが測定している数学的能力とはどのようなものか、その順位の変動は何を意味し、どのような原因によって生じるのかについての理論的な説明がなされてはじめて、データは教育を改善するポリシーに対して一定の意味をもつようになる。
価値選択
さらにポリシー策定の根拠としては、データとその意味を説明する理論だけでは十分ではない。調査の結果の解釈・意味と、どのような施策をとるのか、ということは論理的に別の問題だからである。調査が測定しようとした数学的能力は、いまこの状況で低下しては困るものなのか。仮にそうであるとして、その数学的能力の向上策を優先させるのはなぜか。それはいずれも価値選択の問題なのである。ポリシー策定の意思決定には、こうした価値選択がかかわる。そしてそれは、教育にどのような意味を見いだすのか、どのような教育を意味あるものと考えるのか、という思想や哲学の問題である。
もちろんそうした意思決定や価値選択は、経験的・実証的データとそれにもとづいて現状を説明する理論を無視してなされることは適切ではない。実際これまで、教育・大学政策をはじめとして、データや理論による検証を経ない公共政策が横行してきた。そのため改革が持続性や整合性を欠くことも多い。だからこそ政策の根拠が強調されるのである。
ただしデータや理論だけでは、改革や政策の前提となる「問題」の認識すらできない。現状に眼を向けて、改善するべき問題が認識・構成されるのは、いまこの状況でどのような教育を大切と考えるのか、あるいは教育において何を重要と考えるのか、そしてそれはなぜなのか、という意味や価値にかかわる議論や探究によってである。すなわちポリシーの根拠には、データと理論、そして価値や意味を批判的に問う哲学が必要なのである。
大学の自己像
教育哲学は、これまでも述べてきたように、大学や教育への現状に批判の眼を向ける。そして批判がポリシーにつながるためには、批判によって、大学や教育のあり方に関する新たな概念を練り上げることが大切になる。それは一般的には「理念」と呼ばれるものである。ただし理念ということばには、普遍性への志向がつきまとう。いつの時代のどんな社会でも変わらない大学とその教育についての考え方である。大学改革にとって、本質的な意味で、大学とは何か、という理念の追究は欠かせない。ただし理念は普遍性を志向すればするほど抽象化される。抽象化された理念の、改革の実際への実践的指導性は弱まる。
そこでここでは「像」ということばを用いたい。大学「像」は、理念よりも可変的で多様性を含む。それは私たち大学(改革・教育)の当事者にとっては自己像である。大学とはどのようなものか。大学は社会の中でどのような活動を行ったらよいのか。現代社会の変動のなかで、大学をどのように変えてゆくのか、ということについてのイメージである。
各大学、それぞれの自己像は異なりうる。しかし一方で大学制度全体としての大学の自己像にはある程度の共通性が求められる。社会制度としての大学の役割に関する共通するイメージと、各大学における大学づくりの具体的で多様な展開。それらをまとめたものが大学の自己像である。大学のポリシーの策定にはこの大学の自己像が基盤をなす。いや、大学の自己像なくしては、大学の主体的なポリシーの策定は不可能である。
知的組織体としての大学
大学やその教育を、社会システムにおける「機能」としてみる、ということは、その目的やあり方が、大学の外部(たとえば政治、経済、そして「社会的ニーズ」など)的な要因によって規定されていることを意味している。現代の大学が、社会システムを構成する重要な要素の一つである限り、このことは当然のことかもしれない。
しかし大学は、知識の伝達・保存、創造・再構成など、知的営為をその本務とする社会組織である。800年に及ぶとされる大学史のなかで、それぞれの時代や社会において大学が担った知的活動は様々である。だがそれが知的組織体であることは一貫している。
このように知的活動を本務とする大学が、組織体としての目的やあり方を自ら措定することができていないとすれば、それはその歴史的存在意義にかかわる重大な危機である。
大学は社会のニーズに翻弄され、社会的な機能の一つに解消されるのか。それとも知的組織体として、社会にとって、また学生、教職員、地域住民をはじめとする大学の関係者にとって意味ある知性を提示できるのか。それは、大学が堅実で柔軟性のある自己像にもとづく自らのポリシーを提示できるかどうか、にかかっている。30年を経過した大学改革で、いま大学は分水嶺にさしかかっている。(おわり)