平成23年4月 第2440号(4月27日)
■大学改革に哲学はあるのか
教育哲学が考える大学改革 (1)
大学改革が叫ばれて久しいが、すでに言い尽くされ、形骸化している感もある。「大学改革」という言葉の意味は何か、その哲学はなにか。改めて考えてみる必要があるだろう。このたびは、教育哲学会の松浦良充慶應義塾大学文学部教授より、改めて大学改革の哲学について寄稿して頂いた。
「哲学なき改革」
改革や政策に対して「哲学がない」と非難されることがある。現在進行中の大学改革についても耳にするときがある。大学改革では教育の改善に強い関心が集まっている。そこに教育哲学は「ある」のだろうか。教育哲学は大学改革にどのようにかかわるのだろうか。
いまの大学改革は、あらゆる側面で従来の制度・組織・慣行・考え方などを大きくゆさぶり変革している。様々な革新が導入され、活性化の極みにあるようにも見える。
しかし改革が本格化してからすでに20年が経過した。長期化するなか、一度策定された仕組みや方針が転換・変質することも少なくない。変転する改革、矢継ぎ早にくりだされる革新的試みへの対応に大学は翻弄されている。そのなかで、何のために改革が行われ、どこへ向かってゆくのかが見えない、という閉塞感も生まれつつあるようにも思える。
政策的には、改革のグランド・デザインや、中長期的なあり方についての議論もなされている。けれどもそこで示されているのは、いささか乱暴に概括すれば、社会のニーズに応えて大学を機能別に分化させる、という「将来像」である。そこで大学は、教育・研究・公益的活動のクオリティ・コントロール(質保証)に自ら努めながら、社会の需要に見合った製品(卒業生や知的財産)を生産するための「機能」として捉えられている。それはそれでひとつの明確な大学像として、一定の方向性を示すものかもしれない。しかし大学自身は、社会的機能に解消されることを望んでいるのか。また大学の教育は社会の要求に見合った人材を輩出する機能に過ぎないのか。大学には機能のほかに「意味」はないのか。
教育哲学のアンビヴァレンス
「哲学なき改革」という言辞には、改革には哲学が必要である、というメッセージが含まれている。大学教育の改革にも、教育哲学がなんらかの役割を果たすことが期待されることが多い。しかしその期待が、改革がめざすべき目的や理念を哲学が明確に提示してほしい、というものだとすれば、残念ながらそれは叶わないだろう。かつて19十九世紀頃までは、教育哲学の示す理念や規範が、教育のあり方に対して指導的な影響力をもったこともあった。しかし20世紀に入って、教育事象に対する経験的・実証的科学が発展した。その後、教育の実践や政策は、そうした科学的知見に強く規定され依存することになった。
ここで教育哲学は、教育の実践や政策・改革にアンビヴァレンスを抱えることになった。教育はきわめて具体的・実際的な事象である。それに対して、抽象的で難解な概念を思弁的に操作する教育哲学は、教育の現実的問題に効果的に即応できない、と忌避される。しかし他方で教育は、「どのような人間や社会の姿が望ましいか」「何のために生きるのか、学ぶのか」といった価値や意味の問題と切り離せない。科学的知見のみでは、そうした問題には対応できない。したがって教育には哲学が必要だ、という主張や期待も根強い。大学改革についても同じである。教育哲学が実践や政策を指導しうる有効な目的や理念・規範を単独で示すことはむずかしい。では大学改革に対する教育哲学の役割とは何か。
教育哲学は、対象とする教育事象の基底的構造や根本的原理の解明をめざす。そのための重要な探究方法の一つが「批判」である。そしていまの大学改革に必要なのも、この批判という観点である。「哲学なき大学改革」とは、「批判なき大学改革」であるとも言える。大学を社会的な機能に解消してしまうような大学像。現在の大学は、個別の革新への対応に忙殺され、この大学像を本格的な議論や批判なしに受け容れてしまっている。もちろん社会的ニーズに機能的に応答することは、社会制度としての大学の役割の一つである。しかしそれが大学の役割のすべて、あるいは第一義的な使命なのだろうか。
社会的ニーズに効率的に応答するためには、どのような工夫をすればよいのか。それを、実験的・実証的に確かめることはできる。しかし教育哲学は、そのような命題に批判の眼を向ける。社会的ニーズとはなにか。それをどのようにして知ることができるのか。大学は、すべてのニーズに応えるべきなのか、応えることができるのか。効率性や機能性を優先したときに、どのような問題が生じるのか。失うものはないのか。他に優先するべきこと、選択可能なものはないのか。批判とは、現状の根源を見つめるまなざしである。
オルタナティヴを考える「批判」
批判は単なるあら探しであれば、改革の支障となる。批判が改革の促進につながるためには、現状の問題点を明らかにするだけでなく、批判によって、現状にはないあるいは現状を変革するためのオルタナティヴを考え出すことが大切である。改革は現状の問題を改善することである。しかし問題は、それが問題であることが認識されてはじめて成立する。問題の構成には、現状への批判的把握・点検が必要である。私たちはその際に、言語・概念を用いる。批判が単なる印象論・感情論に終わらないためには、現状を把握し、問題点を析出し、その克服策を議論し考えるための練り上げられた概念と論理が必要になってくる。そうした概念や論理の筋道を整備するのが、(教育)哲学の仕事である。
現状批判によって考え出されたオルタナティヴは、政策化されねばならない。それには意思決定が必要である。意思決定は、いまの状況で何を選択することが重要なのか、という価値や意味の問題にかかわる。さまざまな物事の連関のなかで、教育にとって何が大切か、あるいはどのような教育を選ぶことがいまこの状況で大切なのか、についての議論を、明確で有効な概念と論理によって整備する。それによって一貫性と整合性のある大学改革政策の策定が可能になる。そこで教育哲学の果たすべき役割は大きい。もはや現状肯定的に社会的機能として大学を考えるだけでは充分ではない。大学の教育は、新たな時代にどのような価値や意味をもちうるのか、という観点から大学像を再構築する必要がある。
改革が求められる変革期は、現状への根本的な見直しが迫られているときである。したがって一見現実離れしているような根源的批判や思い切った発想の転換が、実は変革期において最も有効なオルタナティヴを提供するのではないか。教育哲学のアンビヴァレンスは、大学教育やその改革の実際的な課題に対して根本的な批判と探究の眼を向けることによって克服できるであろう。やはり改革には哲学が必要である。批判という哲学が。
こうした観点から、次号では大学における「教育」概念の見直しについて、さらに次々号では大学改革のポリシーの基盤をなす大学の自己像の構築について、教育哲学の立場から考えることにしたい。