平成23年3月 第2434号(3月2日)
■高等教育の明日 われら大学人〈9〉
青春の悩みに答えはない
「書く時間がない」が悩み
神戸夙川学院大学長はノンフィクション作家
後藤正治さん(64)
大学の学長には教育者や学者といった「堅物」が多い。ノンフィクション作家からは日本初、いや世界で初めてではないか。神戸夙川学院大学(兵庫県神戸市中央区港島)の学長が後藤正治さん。最新作『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論新社)で注目を浴びているが、作家歴は35年を超すベテラン。ノンフィクション作家として主にスポーツや医療分野で数多くの作品を紡いできた。2007年から、同大観光文化学部教授、副学長を経て2010年から学長を務める。神戸夙川学院大は学生数900人という小さな大学。90分の授業を週に4回持ち、学生とキャンパスで友達のように会話を交わす気さくな学長。「若者の本質や青春の季節に変わりはない」と話し、「若者が、人として成長している姿を垣間見るのはうれしい」と屈託ない。取材される側に回った後藤さんに生い立ち、ノンフィクション作家から大学学長になるまでの歩みを聞いた。
りんりんと風が鳴っていた。1月末、神戸夙川学院大学(神戸市)を訪れた。大学は神戸港の埋立地にあった。神戸の繁華街、三宮からポートライナーに乗り市民病院前駅で下車。海からの冷たい風を受けながら、10分ちょっとで着いた。07年設立の観光文化学部観光文化学科の1学部1学科の大学。
物静かでスマートな学長というのが第一印象。取材の依頼をしたときの電話の応対も丁寧で穏やかだった。スポーツや医療関係のノンフィクション作家ということで、求道者的な人物をイメージしていたが、違った。
後藤さんは京都で生れた。自宅は京都御所近くにあった。「御所で蝉をとったり、水練場、いまでいうスイミングスクールにも通った。どちらかというと内気な少年だった」
中学から大阪へ。高校は、大阪府立四條畷高校に進む。「高校でも水泳部で自由形短距離の選手でした。府下の強豪というのではなく、その他大勢のひとり。本を読むのは好きだった」。大学受験を迎える。
「自然科学、化学に興味があった」ので京都大学農学部に進学。「大学紛争の真っ只中に大学へ入った。活動家ではなかったが、『どう生きるべきか』という問いかけを真正面から受け止めていた。デモで逮捕され留置場に入ったことも…」
1972年、京大農学部を5年かけて卒業。会社勤めを経て「環境破壊」という雑誌を出す出版社に入る。「石油備蓄基地問題で沖縄にも、水俣病で熊本の水俣へも行って取材した。ものを書くことに近づいた、いわば助走期」
デビュー作は、1983年に発行した『はたらく若者たちの記録』(日本評論社)だった。「組合離れがいわれるなか、労働現場に寄り添って働く青春群像を描いた。このころから執筆活動に専念するようになる。
「最初は医学を柱に書こうと思った。未知の世界、分からない世界に惹かれた」。85年に発行した『空白の軌跡―心臓移植に賭けた男たちー』は、潮ノンフィクション賞をとった。
出版社の編集者から「医学ばかりでは肩がこるでしょう」とスポーツものを書くことを勧められた。プロ野球の阪神が優勝した85年だった。代打男、川藤幸三を3ヶ月取材して総合雑誌に書いた。大の阪神ファン、さぞ血が騒いだのでは。
続いて書いた『牙―江夏豊とその時代』(講談社文庫)は、江夏と自分の青春を重ね合わせたノンフィクションの佳作。「スポーツライターという意識はなく、選手の人生を書いている」という後藤さんの気持ちがビビットに伝わった。
『清冽 詩人茨木のり子の肖像』のように文学者を取り上げるのは初めて。『清冽』は、「わたしが一番きれいだったとき」、「倚(よ)りかからず」などの詩で知られ、06年に79歳で死去した茨木のり子の生涯を追った。後藤さんは茨木のり子をこう表現している。
〈茨木のり子を強い人といってさしつかえあるまいが、それは豪胆とか強靱といった類の強さではなくて、終わりのない寂寥の日々を潜り抜けて生き抜く、耐える勁(つよ)さである〉
学長の恍惚と不安
さて、大学人の後藤さん。神戸夙川学院大に来たのは「07年に設立のさい、知人から教員にならないか、と誘われ引き受けました。60歳を目前にして気の迷いみたいのがあったのかもしれない」。小さく笑った。
「文章読解と表現」、「文学における旅」、「文化講座」などの講義を持つ。学長になったのは「前学長が体調を崩され、副学長をやっていた私にお鉢が回ってきた。逃げまくったが押さえ込まれた」。夫人は「勤まるの?」とつぶやいたとか。
学長の恍惚と不安は?「雑誌にも書いたのですが、(学長になって)増えたのは挨拶ごとと判子押し。私からお願いして4つの講義は続けさせてもらっています。不安?新聞をみると、学生の不祥事の記事にまっ先に目がいくようになった」
小さな大学なので、4年生の学生の名前と顔はすべて知っているという。「4年間、講義をやっていれば4年生の半分は私の講義をとっている」。取材中に食堂に案内されたとき、自ら学生たちに声をかけた。周囲をどっと笑いが包んだ。
いまの学生について聞いた。「世代の違いで嘆きたいこともあるが、レポートを読んでいると、青春の悩みとか、どう生きていけばいいか、といった青春の普遍性というか時代を超えたものがある。私たちと同じだなあと思う」
いい大学というのは
そうした学生にどう接してきたのか。「こうしなさい、と自分の考え方を押し付けるのは嫌いですね。学生にはいろんな選択肢がある。青春の悩みには答えはない。悩んだり、苦しんだり、考えることも悪くはない。答えは誰も与えてくれない、自分で探すしかない。
教育のできること、と大仰に考えるのはどうかなあ。人を変えるには、小さなきっかけがある。(大学は)その契機、出会い、場所であってくれたらいい」
どういう大学をめざすのか?「いい大学があるとすれば、卒業してから在籍したことを『悪くなかったな』と思ってくれる、それがいい学校だと思う。面白いこともあった、そして何かを学び、友人に会えたという出会いがあるような…」
「後藤さんの発する言葉は散文的になりますね」といじわるな質問をすると、「大学の理念や建学の精神を語れ、といえば、そうした話もできますよ」と苦笑いした。
作家と学長の両立は?「これまでは2足のワラジで何とかやってきましたが、取材に行く時間がなかなか取れない。それが欲求不満になっている」。現在、「後藤正治ノンフィクション集 全10巻」(ブレーンセンター刊)を刊行中だ。
ノンフィクションの話になると止まらない。「ノンフィクションは今、低迷とか冬の時代といわれている。書く側にいて自分の責任と思ってしまう。いい作品を書くしかない」、「文芸の世界ではベストセラーが出るジャンルが主流で、ノンフィクションは地味な分野、いい仕事するしかない」。やっぱり、欲求不満?
取材中、後藤さんは「青春」の2文字を、しばしば口にした。ノンフィクション作家の学長は、自分と学生の青春を重ね合わせているようにもみえた。青春を共有する学長と一緒の学生たちはつくづく幸せだと思った。
そうそう、後藤さんの最新作『清冽』には、茨木のり子が大切にした言葉が紹介されている。フランスの詩人、ポール・エリュアールの言葉。
としをとる それはおのが青春を歳月の中で組織することだ。
ごとう まさはる
1946年に京都に生れる。72年、京都大学農学部卒。ノンフィクション作家。90年、『遠いリング』で講談社ノンフィクション賞、95年、『リターンマッチ』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。スポーツや医療問題がテーマの作品が多い。他に『スカウト』(講談社文庫)『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』(文藝春秋)、『咬ませ犬』(岩波現代文庫)などがある。07年から、神戸夙川学院大学教授、副学長を経て2010年、学長に就任した。