平成20年11月 第2340号(11月26日)
■FD義務化を超えて 専門家に聞く"実践"とは
拡大するFDの領域
―教員の役割が変化しています。
教員の責任の範囲が、学問を中心とする「認知的(コグニティブ)な領域」から、学生の心の問題に関わる「情緒的(アフェクティブ)な領域」にまで広がってきています。ユニバーサル化した大学の教員は学生の生活全般に、より深く関わらざるをなくなっています。
学業不振が何故かを学生と一緒に考えると、どうしても「情緒的な領域」に入ってしまうのです。学業不振を突き詰めると、経済的な問題、家庭の問題、人間関係、恋愛問題などが浮かび上がってきます。人生の意味や目標や、大学の日常生活とどう関わっているのかが問題になります。教員は、一人の人間として学生と向き合わざるを得ません。
―FDはどう展開されますか。
当然、授業の改善を中心としたFDでは対応できません。しかし、日本においてこの「情緒的な領域」のFDは手付かずと言ってもよいでしょう。
例えば、統合失調症への対応では「言ってはいけない禁句」があります。教員はこういう基本を知っておくべきです。しかし、そもそも教員だけでは対応し切れない問題でもあります。学生が精神的な問題で悩んだ場合はカウンセラーと共同で対応します。カウンセラーとの有機的な関係を構築することが、新しいFDの領域になってくるかもしれません。対人関係の持ち方というか、教育的対話力の向上も必要ですね。
しかし、多くの教員はそこまでFDに入れてしまうことに違和感を覚えるかもしれません。今でさえ初年次教育やキャリア支援を行っていて、教員に負荷がかかりすぎている。教員の本分は研究を中心とした知的な営みであり、授業を通じて学生に影響を与えていくことだし、それ以上のことをお願いするのは難しい。
だから、教員の「情緒的な領域」への活動はボランティアになっている。教員の間では、物好きな、変わった教員がやっていると思われています。そのような貢献はオフィシャルには認知されていないわけですから、熱心な教員に負担がかかる仕組みになってしまっているのです。
大学教員の職責、関わる領域はどこまでなのかをはっきりさせなければなりません。「教員の仕事の範囲には、そういう学生の「情緒的な領域」まで入るのだ」という合意を、雇用の際の契約条件として、明確化しなければなりません。
―こうしたFDの成果をどう測りますか。
最大の難問です。少なくとも自己評価ができなければならない。「FDのおかげで学生がこう変わった」と言いたくても、主観と客観の入り混じる部分ですから、どうしても感覚的になってしまい、言語化・計量化できません。暗黙の了解になってしまいます。
突き詰めると、それぞれの教員がそういう領域でのFDが必要だという認識を持っているかどうか、それが一番大事だと思います。そもそも、授業改善のFDですら発展しないのは、教員がその必要性を自覚していないからです。「自分とは何か?」「自分の存在意義は?」こういうことを常に問う自己認識がないのです。
ICUでは、全教職員に学生も参加して常に議論をしていました。「ICUの教育とは何か?」設立以来、連綿と問い続けてきたことです。この根源的な問いがICUの教育を支えてきたのです。
―職員との関係は。
「情緒的な領域」における職員の役割はますます重要になります。教員の領域にまで踏み込んで、お互いにクロスする形で一体となって対処せざるを得ないのです。
ただ、一般の職員は事務や管理運営で手一杯ですから、「情緒的な領域」に関わる職員は学生支援の専門職、アカデミック・スタッフであることが望ましいと思います。学生の生活全般に教育的に関われる専門的人材、教員としても関われる教職員の中間的な職域・職能を持った職員です。
アメリカの大学の学生部長(Student Dean)はもっぱら学生支援に対応します。学生の生活面でのカウンセリングを一手に引き受けるスタッフがいますが、日本においてはそういう専門職の養成もFDやSDになってくるのかなと思います。もちろん、そういう専門職に対する処遇の問題もありますし、活躍できる場を作る行政的な対応がなければなりませんが…。
こうした領域の仕事を背景に、教育支援の専門家が出てきて、学会に類似した実践のコミュニティを作って、日常的に自分たちの経験、研究の成果を分かち合う場を作ることが大事だと思います。本来は大学教育学会などがその役割を担うべきですが、充分ではありません。
―教員と職員が一緒に議論をしていくには?
意欲のある教職員が課題を出し合う営みが日常的にないと難しいです。また、学生の状況をリアルに知っていなければなりません。直接的に学生と接触している場面から、問題をきっちりと見分けて対応の仕方を研究・実践する教職員が出てこなければなりませんね。極めて日常的なレベルで問題を認識し、情報交換するような営みが生まれる土壌の醸成をいかに作るかが成否を分けると思います。
そして、意欲のある教職員や土壌が醸成されたときに、見識ある管理側、アドミニストレーターが支援する。例えば、学長が裁量経費で金銭的にも支援しながら、公的に認知させていく。教職員が一緒に議論をしていくプロセスにおいて、どこかで管理側が関与することがどうしても必要です。意欲のある教職員がいつまで経ってもボランティアで、そのうち潰れていってしまうかは、管理側がどこまで認識しているかで決まります。
各地にある「大学教育センター」に、どれだけ学長が関心を持っているか。学長は常にそういう方向性にアンテナを張っている必要があります。
中央教育審議会の「学士課程教育の構築に向けて」で考えられている学生像は、非常に一律的です。恐らく、審議会の委員が自ら所属している大学の学生イメージが基準になっているのでしょう。しかし、実際の現場では大学ごとに当然、学生の特徴も異なり、どういう学生層に対応するのかによって、大学の戦略も変わってきます。それぞれの大学が、それぞれの学生に対して、「学び」を通した自己発見の場としての大学像を描きつつ、それぞれの大学の状況で用意していかなければなりません。
絹川正吉氏
前国際基督教大学学長。
国際基督教大学助手、助教授、教授を経て、一九九六年四月より二〇〇四年三月まで学長。
この間、日本私立大学連盟常務理事、大学基準協会理事、IDE大学協会(民主教育協会)理事、日本高等教育学会理事、大学教育学会会長、大学セミナーハウス館長、文部科学省「特色ある大学教育支援プログラム」実施委員会委員長、等を歴任。
現在、新潟大学理事。