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平成20年10月 第2335号(10月15日)

研究力ある教員が創造性養う FD 有本比治山大教授に聞く

 四月より、学士課程レベルでのファカルティ・ディベロップメント(FD)が義務化された。この義務化に際して、文部科学省は、個別の教員ではなく、大学組織全体として取り組むこと、また、単に講演会を開くなどの取組では不十分であることなどを公表している。比治山大学高等教育研究所長の有本 章教授は、海外の大学におけるFD研究などを通じ、義務化によって、特に教員の教育力に焦点が当てられすぎる日本のFDは、国際的な流れに逆行し、日本の国際競争力を低下させると警鐘を鳴らす。

 ― FDの定義は。
 FDには狭義と広義があります。狭義のFDでは、教授法、学習法、学生の学習支援に特化したティーチングの向上です。さらに、カリキュラムの開発や工夫を行ないます。
 広義のFDでは、ティーチングに加えて研究、社会貢献、マネジメント、アカデミック・キャリアも含まれ、大学教員としての人生トータルで、これをいかに充実させるか、ということが考えられます。
 ― FDが義務化されました。
 FDは、その歴史から見ても、他国を見ても、広義の自主的な自己研究が基本です。教員自らが創意工夫をして、努力して、トータルな力を向上させていくのです。
 しかし、わが国においては、自主的、主体的にやるという風土が育たないうちに、二〇〇五年に義務化。本年度から学士課程が義務化となりました。
 義務化には問題点も多いのです。特に、現在多くの大学で取り組まれているFDは狭義のFD。外部基準の「マニュアル」に照らしてFDを行なうことになる。
 外部の基準だと、頑張って一〇〇点満点はありえますが、それ以上に行おうという動機がなくなります。外部で作られた枠組みに適応するようなFDをすればよいと。
 この動きは、世界的に見ても逆行しています。例えば、アメリカでは、日本で起こりつつある大学淘汰の問題が一九七〇年代に起きました。
 すぐに、教員の資質改善という問題になり、「良い教員が良い教育をして学生を惹きつけよ」ということで、狭義のFDをやった。しかし、それだけでは大学を良くしていくことにはならないから、広義のFDに取り組むことで大学全体を盛り上げてきている。
 義務化と狭義のFD活動は、長いスパンで見れば、日本の大学の教員や学生から創造性を失わせているように感じます。今のようなやり方をしていたら、国際的に見ても競争力が弱くなると危惧しています。
 ― 何故、創造性を失わせるのですか。
 狭義のFDは、極端に言えば、研究はせず教育に専念せよと。
 しかし、最先端の研究をしている教員だけが学生に与えられるインパクト、発明や発見する力、最先端で起こる事象の捉え方があります。これは暗黙知です。暗黙知は職人が持つ、言葉で説明ができない技法・知恵のことです。研究者にとって一番大事な暗黙知が、「新しいものを創造する力、知識を発明・発見する力」であると考えています。
 ― 創造性のために、大学は何をすべきですか。
 大学活動の基盤は「知識」です。知識は固定した性格を持っていないけど、周りの環境などによって変わります。知識の発明・発見が「研究」。知識の伝達・伝播が「教育」。知識の応用が「サービス(社会貢献)」。そして、知識の統制が「管理」。
 全ての基本である「知識の発明・発見=研究」と「知識の伝達=教育」の統合は、他の教育機関にはなく、大学だけが持っている特徴です。
 未知のことを考える力とか変化に対応できる力を大学は教育していく。そして、一人ひとりが主体的・自立的に知識を発明発見できる力を鍛える場所が大学なのです。知識が枯渇するならそれは大学ではない。二十一世紀は知識社会だから、世界的にそういう競争をしています。
 こうしたダイナミックなエネルギーや特徴を無意味にするFDをしようとしているように感じます。さらに、マニュアル化が進めば、ますます自主的・主体的な創造性が弱くなる。大学は学校や職業訓練機関ではないのです。
 そもそも、大学の教員の魅力とは何でしょう。挑戦的に何かを創造していくことではないでしょうか。それなくして、よい人材が集まってくるのかどうか。学生数は伸びるのか…。
 ― しかし、教員の挑戦力も落ちてきています。
 この一五年間、様々なところで大学のマニュアル化が進み、また、大学運営で忙しくなったりして、だんだん教員の挑戦が失われています。
 科研費も二極化しています。しかし、もらいすぎてもパフォーマンスは落ちますし、もらえない人は、「貧すれば鈍する」で挑戦しなくなる。市場原理が当たり前になりましたが、果たしてそれでいいのか。
 優秀な人にお金を集中させた方が効率的ではあります。しかし、優秀な人は先が見えていることには手を出さない。ところが、「先が見えないからこそやっている人」もいて、研究中に何かハプニングが起きて大発見につながるということもあるのです。
 そういう意味では、無駄な研究などないといえます。優秀な研究をする人よりも、「やってみよう」といって創造性を発揮しながら挑戦する研究者を増やすことが大事だとも思いますし、それが大学の魅力ではないでしょうか。
 ― 一人の教員が教育と研究をすると負担がかかるのでは。
 もちろん、全部はできないから、分業することも考えられます。ただ、研究と教育は両立させないといけないと思います。
 教員のライフサイクル全体の中でFDを考えるということもできます。研究は積極的に若手に関わらせる。一般教育等広い教育は年配の教員にお願いする。
 大学院と学士課程という分け方も考えられます。学士課程は教養教育、大学院は専門教育や研究をやると。大学全体として分業して統合させればよいのです。
 ― 広義のFDの特徴は。
 広義のFDは、マニュアル化したとたんに狭義になってしまう特徴がある。「創造性の重要性」などは、感覚では研究者は知っています。こういう暗黙知に対して、狭義の「ティーチング」だけを形式知、明示した言葉や文章などとして切り出すと、他の研究や社会貢献の取組が硬直化してきます。だから広義のFDは難しいし、「FDの基本は教員の自己研究」ということの理由でもあります。
 しかし、今の日本は狭義の方向に行っている。教員が持つ暗黙知を無視して、マニュアルどおりに教えて、現在議論されている「学士力」を身につけさせる教育ができるのかどうか。
 いずれにしても結局は、研究力のある教員が、創造性のある学生を育てると思います。だから、教育力の前に研究力を持った教員が必要なのです。
 究極的には、研究力と教育力の統合が欠かせない、ということになります。

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