アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.542
高等教育の費用を誰が負担するか 第58回公開研究会の議論から
教育界の外から教育の成果を期待する人の中には、教育・学習に必要なのは努力であって、お金ではないと考える人が多いようだ。仮にお金が必要だとしても、それは高等教育を受ける本人の問題だから、本人またはその親が負担すればよいと考えられている。
しかし、教育は時間と手間がかかる営みであり、そのために膨大な人件費を必要とする。施設・設備に要する費用は一時的なものと思われがちだが、その維持や更新には継続的な資金投入が求められる。快適な学習環境を確保し、先進技術を導入した教育を展開しようとすると、なおさらである。
そして、ある個人が教育を受けたことによる効果は、その人だけにもたらされるものではない。個人が身につけた知識や技術は、職場などの組織で周囲にも広がるから、組織にも高い生産性をもたらす。個人や組織の生産性が向上することによって、個人や組織の所得だけでなく、国と地方の税収も増える。教育経済学の分野では、高等教育が普及した地域では、住民の健康増進がみられ、犯罪率も低く、したがって、社会保障費なども削減できるといった研究が蓄積されている。
そうだとすれば、教育に必要な費用は、教育を受ける本人とその家族だけでなく、社会全体で負担してもよいはずだ。ところが日本の高等教育への公財政支出は、GDP比0.5%で、先進国の中では最低の水準である。第58回公開研究会は、この点をテーマに、昨年11月27日に開催された。
丸山文裕広島大学教授(私学高等教育研究所研究員)が研究会当日に示したデータによれば、2008年の日本の高等教育に対する支出額はGDP比1.5%で、ドイツ(1.2%)、イギリス(1.2%)、フランス(1.4%)よりも、むしろ多い。支出額を学生一人当りでみても約1万5000ドルで、OECD加盟国の平均値よりも多い。
しかし、支出額を負担者によって区分してみると、欧州各国は私的負担よりも公的負担が多いのに対して、日本は私的負担が多い。このため、高等教育に対する公財政支出が先進国では最低の水準となっているのである。アメリカは私的負担も多いが、公的負担も欧州並みに多い。同国の高等教育に対する支出額はGDP比2.7%と先進国では最高であり、これが豊かな高等教育の基盤となっている。
丸山教授によれば、日本の高等教育に対する公財政支出は一貫して低いわけではない。1970年代後半から1980年代初めにかけて、GDP比0.5%を超えており、学生1人当り公財政支出も比較的多かった。1990年代後半以降、大学進学率の上昇に公財政支出が追いつかくなり、現在に至っている。高等教育費の政府負担よりも家計負担の方が大きくなったのは1985年からであり、以後、両者間の差は広がるばかりとなっている。
高等教育費の家計負担はこれほど高まっているのだが、その実態を詳細に検討したのが田中敬文東京学芸大学准教授(同研究員)の講演である。田中准教授によれば、2000年以降、家計負担を考慮して納付金額を据え置いている大学が多いが、家計の実収入は下がり続けているので、可処分所得に占める初年度納付金の比率は上昇し、2011年時点で22.7%に達している。
家計負担は限界に達しており、特に私立大学生がいる世帯は、相当の高所得であっても、貯蓄を取り崩している。学生自身も、生活費を相当に切り詰めており、親世代が大学生であった時代(1977年前後)並み、あるいはそれ以下の費用で生活している。
こうした実態を踏まえた公共政策として、大学への補助金増加による納付金引下げ、納付金分の所得控除による減税などが考えられるが、実際に高等教育費の公的負担が多い国は税負担が重いということも忘れてはならない。単に高等教育への支出を増やすということだけではなく、大学教育は公共財であるという側面に注目しつつ、意欲・能力がある学生が進学できるようにするためには、誰がどのように費用を負担するかについての議論が必要であると田中准教授はいう。
議論の筋道を示したのが矢野眞和桜美林大学教授(同客員研究員)の講演である。矢野教授によれば、日本では、エリート養成は国立大学でなされ、大衆の教育需要は私立大学が吸収している。エリートは私立(個人の高負担)、マスは公立(社会の負担)というアメリカ、両者とも公立という欧州と比べると、日本の高等教育はねじれている。依然として日本は後発国段階にあるといえるが、このねじれを支えているのは、人々の意識である。
矢野教授のグループが実施した意識調査によれば、日本の成人が優先してほしいと考えているのは、教育政策よりも医療・介護、年金、雇用政策である。関心の低い教育政策の中でも、高等教育への関心は特に低い。大学進学機会の確保よりも、義務教育の充実、公立中学校・高校の整備、高校無償化が優先すべき課題と考えられている。
ベネッセ教育開発研究センターの調査でも、大学教育費は個人ではなく社会が負担すべきと考えている人は少数である。しかも驚くべくことに、自身が経済的理由によって進学できなかった可能性がある非大卒者であっても、子を持つ親であっても、大学教育の費用は個人が負担して当然と考えているのである。
このような強い個人負担志向は、大学教育の公共性などを人々が原理的に考えた結果ではなく、現状を肯定しているだけだというのが矢野教授の見立てだ。学力エリートは安い費用(社会による負担)で国立大学に進学し、私立大学での大衆の教育は自己責任というのが支配的な考えである。
ところが、個人的で私的なものと考えられている私立大学は、実際には多くの卒業者を輩出し、平均的にみると高卒者を上回る所得を獲得し、政府の税収増に貢献している。政府は私学助成等の僅かな負担で、大きな便益を得ているのである。
むしろ、ノブレス・オブリージュの立場からエリート教育の費用を自己負担とすべきであり、平均的大学への公共投資を現状よりも充実させ、普通の人の創意工夫によって生産性が高まる社会を今後とも維持すべきというのが矢野教授の主張である。
今回の講演者は、最近になってデータを収集・分析し、費用負担についての議論を展開し始めた方々ではない。いずれの方も、長きにわたって、日本の高等教育に対する公財政支出が少ないことを明らかにし、家計負担の重さを示し、大衆のための大学政策を主張してこられた。
にもかかわらず、高等教育に対する公財政支出を増額すべきという見解は、一般の国民の間にも、財政当局にもほとんど定着していない。大学教育の外部効果や公共性を、これまで以上に明瞭に、分かりやすく示す必要があるようだ。私立大学も、資金を効果的に活用し、社会の負託に一層応えうる教育を展開しなければならない。