アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.441
高等教育の変化をとらえる 第47回公開研究会より
2月18日、アルカディア市ヶ谷で、私学高等教育研究所(以下、私高研)による第47回公開研究会が約100名の参加者を迎えて開催された。今回の研究会は、「高等教育の変化をとらえる―『私学高等教育データブック』の試み―」として、2008年度から2010年度にかけて私高研で取り組まれてきた研究プロジェクトの成果の一部を報告するものであった。近年、エビデンスに基づく政策や客観的指標による評価、IRの重要性の指摘など、データに基づく議論が重要視される中で、データベースを用いた研究を通じて、大学教育の変化をとらえることを目的として企画されたものである。当日は、武蔵野大学の岩田弘三教授と同大学の黒河内利臣非常勤講師による「学生生活の変化」、浦田広朗名城大学教授による「教員の変化」、島 一則広島大学准教授による「大学教育の経済的効果の変化」の3件の報告が順になされた後、参加者との議論が行われた。本稿では、当日の報告の概要を紹介し、若干の私見を添えたい。なお、公開研究会に先立つ2010年12月には、『私学高等教育データブック2010』として研究成果がまとめられ私高研より刊行されている。ぜひあわせてご参照いただきたい。
まず、研究代表者である浦田氏から報告された研究プロジェクトの特徴を確認しておきたい。浦田氏は、今回「データブック」として3種類のデータの整理を進めたとした。第一は行政機関をはじめとする諸機関が継続的に実施している統計調査データの整理、第二に東京大学社会科学研究所附属社会調査・データアーカイブズ研究センター(SSJDA)等によって蓄積されている各種調査データの二次分析を含めた利用、第三は個々の大学の教育活動や財務データなどの各種データを収集整理して分析することである。これらのデータを活用して、大学教育の変化を議論することが公開研究会のねらいであることを紹介した。
岩田氏と黒河内氏からは、前述の東京大学SSJDAに寄託され公開されている全国大学生活協同組合連合会による「学生の消費生活に関する実態調査」(以下、生協連調査)を主に用いた分析が報告された。この調査は1963年から毎年実施されており、文部科学省が実施してきた「学生生活調査」(現在は日本学生支援機構が実施)と並んで、大学生の生活状況を時系列的に知ることができる調査である。岩田氏はこのデータから、近年の学生には、高校時代の延長として授業にはまじめに出席するが読書などの能動的な学習は少ない「生徒的な学生によるまじめ文化」が広がっており、旧来から指摘されてきた「大学の学校化」とともに「学生の生徒化」が進行していると指摘した。次いで、黒河内氏が、生協連調査の2007年度の個票データを用いた二次分析に基づいて、1990年代初頭以降、国公私立の設置者の別を問わず大学生の経済的状況も意識も平準化していることを指摘した。さらに、黒河内氏は「学生生活調査」を用いた1990年代以降の大学院生の学生生活費の推移も報告した。その結果、修士課程の学生では、学生生活費の支出金額に変化は見られないが支出費目の中で学費の比率が高まっていること、博士課程の学生では国公私立を問わず家庭からの援助に頼らないでアルバイトや奨学金によって自ら収入を得ている傾向があることを紹介し、今後大学院生の経済的支援の重要性を指摘した。
浦田氏は、今回の報告内容には大分大学専任講師の長谷川祐介氏による分析結果を含むことを述べた上で報告を行った。まず、大学教授職の法令上の要件の変化から、過去30年で大学教員には研究より教育が求められるようになり、その結果、大学教員のリクルート源が多様化されていることを確認した。その上で、文部科学省の「学校基本調査」や「学校教員調査」をもとに、過去30年間に大学教員数は1.69倍に増加する一方で、学部学生数は1.47倍、大学院生数は5倍増加しており、大学院拡大政策の中で大学院の教育環境は高まっていないことを指摘した。さらに、教員の流動性をテーマに次の議論を行った。1996年の大学審議会答申において大学教員の流動性を高めることが大学教員の教育研究能力を高める上で意味があるとされて以降、法制度及び各大学において大学教員の任期制が導入され、2008年時点で大学教員数の2割以上が任期付教員となっている。しかし、浦田氏が参加する研究グループが「変貌する大学教授職」として行った2007年の国際比較調査のデータを用いて、発表論文数と大学間移動の経験や学外共同研究者の有無の関連を分析したところ、大学教員が大学間移動を経験することは研究の生産性に効果は少なく、むしろ学外研究者との交流の有無が研究の生産性に意味を持っていることが示された。この結果から、任期制により大学教員の流動化を促進するよりも、大学教員がそれぞれの大学で安定的な地位を確保した上で、学外研究者との知的交流を促進するほうが研究の生産性に有効ではないかと指摘し、報告を結んだ。
島氏は、厚生労働省の「賃金構造基本統計調査(賃金センサス)」を用いた大学進学の収益率を報告した。収益率とは、大学進学にかかるコスト(大学への納付金などの直接費用とその期間働いていれば得られたであろう放棄所得の合計)とベネフィット(大卒者と高卒者の生涯賃金差)をもとに大学進学の経済的効果を算出するものである。2009年の大卒男子の収益率は国立7.6%、公立7.6%、私立7.1%であり、この率は近年上昇傾向にあることを報告した。しかし、この傾向は大卒者の賃金が高卒者の賃金の上昇を上回ることで生じているものではなく、両者の賃金が低下する中で高卒者の賃金がより大きく低下していることに起因する。さらに、大卒者と高卒者の賃金格差の拡大は、同世代の同年齢層の賃金比率の変化においても見られること、つまり労働市場における高卒者への経済的処遇の悪化が進んでいることを指摘した上で、現在、「経済的なリスクを回避するための大学進学」がみられると指摘した。さらに、東京大学大学院大学経営・政策研究センターによる「大学教育についての職業人調査」のデータをもとに、大学院進学の経済効果として大学院修了者は学部卒業者よりも生涯所得が大きいことを示した上で、旧来「大卒・修士卒の所得に大きな違いはない」とされていた言説はデータによって否定されることが紹介された。
このように今回の研究会は、大学生気質の変化、任期制の導入をめぐる議論の検証、大学院進学の経済的効果など、これまで印象や経験で議論されてきたテーマをデータに基づいて検証するものであった。旧来指摘されてきた事象が、データにより確認されたテーマもあれば、データにより否定されたテーマもある。もちろんデータの解釈や分析には異論があるかもしれない。それが重要なのである。データは正解を自動的に示すものでも、過去の変化を検証するだけの道具でもない。思いつきや個人的経験でない論拠に基づいて「議論」することが、データが重視される本意である。これは、個々の大学にとっても、高等教育政策にとっても同様であろう。データベースの作成は大変手間のかかる作業であり、また、そのデータを用いて分析することは非常に地道な作業であるとともに、分析手法やデータの組み合わせなど一定の知見を必要とする作業である。しかし、今回の基盤的研究によって、実証的で客観的な証拠に基づく政策議論が可能となることが具体的に示されたことの意味は大きい。過去と現在を踏まえた具体的な未来のためには実証的根拠に基づいた議論が重要であることを参加者が共有した公開研究会であった。