アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.336
IRの役割と期待 第37回公開研究会の議論から
去る8月1日、東京・市ヶ谷の私学会館において「高等教育の新しい側面―IRの役割と期待」と題する私学高等教育研究所主催の第37回公開研究会が開催された。今回のテーマの「IR」とは、Institutional Researchの略であり、大学が自らの教育研究・経営・学生支援等の諸活動の改善を目的に、関連する内外の情報を収集・分析・検証・報告する組織的機能・活動を指す。このようなIRについては、本年1月に開催された日本高等教育学会創設10周年記念シンポジウムでも議論がなされており(『日本高等教育学会ニューズレターNo.21』参照=同学会websiteに掲載)、研究課題として注目を集めている。また、認証評価制度の導入による学内情報の集積、供給過剰市場に転化しつつあるなかでの戦略的学生募集の必要性などから、諸外国の大学のIRに関する実務的関心も高まっている。100名を超える参加者で会場が満席であったことは、その関心の高さを示すものであろう。今回の公開研究会では、IRに造詣の深い高等教育研究者である山田礼子氏(同志社大学)、沖 清豪氏(早稲田大学)、鳥居朋子氏(鹿児島大学)、森 利枝氏(大学評価・学位授与機構)による報告がなされた。以下では当日の概要を紹介し、若干の私見を添えたい。
山田氏の報告は「大学マネジメントを支援するIRの役割と機能」として、アメリカの動向からIRの概念と機能・役割を整理し、日本への示唆を言及するものであった。アメリカの各大学のIR部門は、教育研究活動のデータ集積・分析・報告、財務分析、経営に係る情報の入手と分析、大学内部のさまざまなデータ管理、戦略計画の策定、自己評価書・アクレディテーション機関への報告書の作成等を担当しており専門組織として機能していること、しかし、各大学のIR部門の活動内容は公立と私立などの大学種別や立地する地域によって異なっていることが紹介された。さらに、各大学のIR担当者による専門職団体であるAIR(Association of Institutional Research)が学会として組織され、年次大会や職能開発プログラム等によりIR担当者の技術の習得を支える役割を果たしていること、また、アメリカではIRの道具となる学生調査が複数開発されており、各大学がそれぞれの目的に応じて利用していることが報告された。日本では、現在、山田氏らにより開発が進められている日本版学生調査が、IRが担う大学教育等の改革に役に立つのではないかと提案がなされた。
沖氏からは「アメリカ高等教育機関におけるIRの機能と担当者養成」と題して、ペンシルバニア州立大学とフロリダ州立大学のアメリカの二大学の事例に基づいた報告が行われた。両大学のIR部門は、各種の全国調査や大学の中で必要とされる独自調査を行い、必要なデータを揃えて学内部署に提供する機能を果たしていることでは共通している。しかし、前者の大学のIR部門は大学の戦略立案機能に積極的に関与しているが、後者ではその関与に禁欲的であり、異なる側面を持つことが紹介された。さらに、両大学がAIRの助成を受けて取り組んでいるIR担当者養成プログラムの概要が報告され、二つの大学のIR部門の具体的な活動や養成プログラムの検討を通して、IR担当者には学生に関する専門的知見、調査と統計分析の専門的能力、高等教育に関する専門性が必要であると指摘がなされた。
鳥居氏の報告は「豪州高等教育機関のIRと教育改善」として、シドニー大学とメルボルン大学の二大学の事例に基づいて、オーストラリアの大学におけるIRの特徴を整理し、日本への示唆を指摘するものであった。シドニー大学では、教学領域のIR機能とFDの機能を併せ持つ全学組織が置かれており、各種の学生調査を実施・集約・分析するとともにそのデータに基づいて教員の意識改革等のFDを通じた教育改善が行われていることが紹介された。他方、メルボルン大学では経営部門のIR組織が教学に関するIR機能も併せ持ち、各部局のFD活動と連携することを通じて教育改善に取り組んでいることが紹介された。豪州では連邦政府の高等教育政策が成果に基づく奨励政策が強まる中で、各機関は、IRとFDの機能を連携した教育改善に取り組んでいる。日本においても、教育の質的向上のマネジメントサイクルを支援するIRの機能をFDとつなげて考えることが重要ではないかと指摘がなされた。
森氏は「需要からのIR」として、三氏の報告を踏まえつつ、日本への示唆を提起するものであった。IR部門は、誰がいるのか、組織上どこにあるのか、何をするのか、部局でなければならないのか、を論点として示した上で、同じ機能を果たし得るとしても、大学に長期間在職しており「ヌシ」のようにその大学を知り尽くした個人の知識と経験に依拠するのではなく、大学への愛と統計をシステムとして総合性と継続性を持って位置づけることがIRの要点ではないかと指摘した。さらに、IR担当者には、収集した個人データを目的外に利用しない守秘の原則が課されることにも指摘がなされた。日本への示唆として、専門性を前提とするIRのプロフェッショナリズムは、教授会主導のマネジメントがなされている日本の大学のアマチュアリズムを超克できるであろうかとIRの需要を問い、他方で、専門的能力を要する担当者の育成が課題であるとしてIR担当者の供給を問いかけた。
今回の研究会は、IRの役割と活動が理念的に整理されるとともに、米国と豪州の事例から個々の大学によってIRの組織上の位置付けや機能・役割が異なることが具体的に紹介され、日本への示唆と課題を具体的に指摘するものであった。各報告からIRには共通性と個別性・多様性が内在されていることが具体的に示されている。IRは大学経営や教育研究活動の改善に大学内外の情報を活用するための仕組みであり、その仕組みを具体的なマネジメントサイクルに位置づけて継続的・組織的に機能させるものである。改善のための組織的取り組みであるからこそ、IR担当者には高等教育の専門知識とデータ分析を基盤とする専門性が必要とされ、マネジメントサイクルの一端を担うからこそ、学内において組織的な役割を果たすことが期待される。このことはIRの共通性である。しかしながら、個々の大学がIR部門をどのように位置づけ、どのような課題に重点を置くかは、それぞれの大学の組織構成、建学の理念や歴史的経緯、教員・学生の教育研究学習活動の現況、学生募集の動向等により多様となる。IRの個別性とそれによる多様性である。報告に対して参加者から、諸外国では各大学のIR部門がどのような報告書を作成しているのかを具体的に知りたいと質問があり、IR部門の報告書はアカウンタビリティとして公表される部分と内部情報として機密とされる情報が存在し、後者へアクセスすることは難しいと報告者から回答がなされた。このような公開と機密の両面を持つことも、共通性と個別性をもつIRの特徴といえる。
日本でもすでに、情報分析室や評価室、企画室等の名称によりIR部門を有する大学は少なくはなく、実践的取り組みは進められている。しかしながら、日本の各大学のIR部門の活動や担当者の専門性とその養成に関する議論、つまり日本におけるIRの共通性に関する議論はこれからである。共通性と個別性の両面をもつIRを、高等教育研究と大学の実践活動の両面から更に発展させていくことが今後期待される。