アルカディア学報(教育学術新聞掲載コラム)
No.104
高等教育とWTO貿易交渉―第16回公開研究会の講演から
私学高等教育研究所主催・第16回公開研究会のボストン・カレッジ国際高等教育センター所長のフィリップ・アルトバック氏による講演(平成14年12月20日開催)は、非常にタイムリーかつ有益な情報に富んだものであった。かねてより、米国及び欧州の高等教育関係者の間では、教育をサービス貿易の交渉対象の一分野として取り扱うWTO(世界貿易機構)サービス貿易交渉の行方がそれなりの注目を浴びていると伝え聞いていたが、改めてこの講演を通じてその一端を垣間見ることができた。一方、我が国では、WTO貿易交渉について、政府による広報努力が不十分とのお叱りもあるかもしれないが、大学改革の大波の中にある高等教育関係者の関心を引き付けているとは言い難い面がある。こうしたなか、この研究会をきっかけに関心を有する関係者が増えるとすれば、ありがたいことである。
僭越ながら、アルトバック氏のお話の中から、私にとって特に示唆に富んでいたいくつかのポイントについて触れたい。
第1に、世界的な私学セクターの成長と地域や国ごとの差異である。高等教育の普及・拡大及び財政難等による政府支出の限界は、世界的な傾向であり、私学セクターの成長の要因となっている。こうしたなか、西欧においては、依然として公的セクター(国公立大学等)が高等教育の中心的役割を果たしているが、旧社会主義圏の旧ソ連・東欧諸国、中国・ベトナム等のアジア社会主義諸国、ラテン・アメリカ諸国などにおいて私学セクターが急成長している。米国及び日本は、いずれも私学セクターが重要な役割を果たしている国々に数えられるが、特に我が国は、学生数等から見て私学セクターが大きな役割を果たしている。日本、韓国、インドネシア等を含む東アジア・東南アジア諸国においては、高等教育の拡大において概ね私学セクターが大きな比重を占めていると言える。
第2に、拡大する私学セクターを含む高等教育の質保証の在り方が、世界の各地域、各国に共通する課題となっていることである。そして、例えば米国のように民間のアクレディテーション機関が質保証に大きな役割を果たしてきた国もあれば、我が国のように設置認可等を通じて政府が質保証に比較的大きな役割を果たしてきた国もある。世界各国は、こうした異なるコンセプトを参考にしながら、それぞれの社会にふさわしいシステムの在り方を検討することができる。
第3に、米国の営利高等教育機関が米国内のみならず他国にも進出しつつあることである。米国においてもほとんどの私立高等教育機関は非営利であるが、株主への配当を行う営利高等教育機関の中には、近年、米国の伝統あるアクレディテーション機関のアクレディテーションを受けるものも出てきている。
第4に、新興の営利高等教育機関のみならず、伝統的な非営利私立高等教育機関や国公立高等教育機関を含め、各国の高等教育機関が世界的な競争の只中に入りつつあり、このことがWTOサービス貿易交渉の背景にあることである。
アルトバック氏が指摘されたように、高等教育は、社会全体にとっての公益と学習者にとっての私的利益の両面を含むものであり、高等教育をサービス貿易交渉の対象とすることについて米国や欧州を含む世界の高等教育関係者の一部の懸念と論議を呼んでいるのは、そのためであるとも言える。我が国における公教育という言葉は、教育の公益的側面に着目したものであり、申し上げるまでもなく、我が国の私学は、公教育の重要な一翼を担っているわけである。アルトバック氏ご自身は、公益的側面をより重視するにとどまらず、高等教育を貿易交渉の対象として見ることに慎重な立場を示しておられた。同氏の立場への賛否如何にかかわらず、氏が指摘されたように、各国の高等教育関係者が高等教育のグローバル化とWTOサービス貿易交渉のチャレンジに直面していることに変わりはない。ここで私見を付言することをお許しいただけば、WTOを舞台とした教育サービスに関する貿易交渉は、その是非を論ずる段階にはなく、既に交渉は始まっているのであり、教育の特性を勘案した望ましい方向へ交渉が進むよう、世界の教育関係者の声が反映されることが重要であろう。
また、この場をお借りして、WTOサービス貿易交渉に臨む我が国政府の教育サービスの取扱いに関する基本的な立場をご紹介したい。その立場は、一言で言えば、教育の質保証の観点を大切にしながら教育サービス貿易の自由化を促進しよう、と各国に働きかけるものである。我が国としては、何よりも教育の質の維持・向上に主眼を置いて検討すべきと考えている。貿易の自由化と質保証は相反するものではなく、むしろ手を携えて進んでいくべきものと言えよう。例えば、ディグリー・ミルなど低品質のサービスから消費者たる学習者を守る質保証は、貿易促進にとっても有益であり、貿易交渉においても重視すべき観点だからである。
WTOサービス貿易交渉の行方如何にかかわらず、高等教育のグローバル化は既に現実のものとなりつつあり、国境を越えて提供される高等教育の質保証の在り方が、我が国を含む各国共通の課題となっている。文部科学省においては、我が国の大学の教育研究のグローバル化及び国際競争力の向上に資するとともに、大学の質保証に関する国際的なシステムの構築に貢献していくため、国際的な大学の質保証の在り方に関する調査研究を開始すべく、その準備に着手していることを申し上げ、私の拙い感想を締め括りたい。