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アルカディア学報

No.107

IT基盤整備の課題―教育の質的改善実現に向けて(下)

カーネギー財団 上級研究員・同知識メディア研究所ディレクター 飯吉 透

 前回(第2091号)は、アメリカの高等教育界で進むIT(情報技術)基盤の整備の進展と、高等教育の質的改善のための具体的な試みについて紹介した。その中で、高等教育における知的生産物とその生成過程を共有し切磋琢磨するための「オープンソース・モデル」を機能させるためには、「知識」を自由に流通させる標準化された基盤の整備と、共通した文化的価値観と目的を持ったコミュニティの形成が不可欠だ、と述べた。  前者については、オンライン講義で利用されるプラットフォームの標準化を進めることが重要なのは勿論だが、抜本的な教育の質的改善を目指すには、単に「講義をネットワーク上で提供する」という狭い観点を越えて、「これらの新たなシステムをどのように利用すれば、恒常的に教材や教授方法、学習の質を高めていくことができるか」を考える必要がある。オンライン講義やインターネットを部分的に利用した講義では、教材、ディスカッションの内容、課題レポートなどの提出物、試験答案やその評価など、様々な電子化された資料やデータが、ネットワーク上で閲覧・利用可能だ。これらの資料やデータは、適切に分析されれば、「教材や教授方法の効果」、「学生の理解度や学習の過程や成果に対する満足感」、「教材や教授方法の改善点」などを吟味し検討するための最良の材料と言える。しかし残念なことに、これらの資料やデータを比較的簡単に分析し、教材や教授方法の改善を促進するための支援機能が、現在アメリカの大学で広範に利用されている市販のLMS(ラーニング・マネジメント・システム)には、ほとんど備わっていない。大学が、優れた研究者や教員を「財産」とみなし、研究環境の向上やFD(ファカルティ・ディベロップメント)に力を注ぐことに興味があるのならば、同様の理由で、教育の質的改善を支援するテクノロジーの開発や導入にも積極的に取り組むべきだろう。
 とは言え、さらに難しいのは、後者の「文化とコミュニティの形成」だ。いくらテクノロジーによる基盤整備が進んでも、「教育の質を高めていこう」という文化を持ったコミュニティが存在しなければ、まさに「仏作って魂入れず」である。このような文化を育んでいく際に、各大学(もしくは学部)のレベルで始められるのは、「制度的な改革」だ。例えば、教員の昇進や昇給の評価対象に、「教授方法の効果や改善への努力」を含める、というやり方がある。アメリカの大学では、テニュア(終身在職権)制度における教員の評価において、研究業績だけを重視するのではなく、教育実践面での業績も十分に考慮する、という動きが出始めている。また、「自らの教授法の効果検証やその改善の試み」を教員に勧め、任意にレポートさせ、その成果を「教育実践奨励賞」のような形で表彰している大学もある。
 しかし、これらの制度的なアプローチが功を奏し、各大学で教育の質的改善に関する取り組みが推進されるようになっても、その努力やインパクトは、いわば「鎖国状態」の域を出ない。個々の大学が、教育機関としての質を互いに競い合いながらも、閉鎖的にならず、より大きなコミュニティを形成し、教えや学びに関する知識や情報の積極的な開示を通して学び合える、という状態が理想的と言える。異文化間交流や科学技術の進歩が、特に近代に入ってから加速された大きな要因の一つは、交通機関や情報通信システムの発達によって、人や物、情報の世界的な行き来が活発になったからだ。このような中で、国家や企業間の国際的な競争はむしろ激しくなった側面もある。それでも一般的に、知識や情報が開示され、共有されることは、私たちの文化や生活を豊かにするという点で、マイナスよりもプラスに働くことが大きいのは確かだろう。このような観点から高等教育をみると、研究の領域では、知識や情報が公開され、世界的な「知のコミュニティ」が形成されているのに対し、教育の領域では、いまだに「鎖国状態」を脱していない。しかも、この「鎖国状態」は、「教員」「大学」「国」という各々のレベルで存在している。江戸時代末期、日本の鎖国は、アメリカを始めとする外国からの外交的な働きかけによって解かれたが、そこで軍事力が果たした役割は大きかった。同じように、今、テクノロジーは、高等教育における「知の公開と共有」を促す大きな力となりつつある。この力を「追い風」として、新たな文化を持ったコミュニティを形成できるかが、今後の高等教育改革の重大課題の一つだ。
 心強いのは、アメリカでこのような試みを推進するためのモデル作りが、すでにあちこちで始められていることだ。私も中核的メンバーとして関わっているFIPP(Faculty Innovations Profile Project)は、まだ立ち上げられたばかりだが、「高等教育の質的改善のため、大学間の垣根を越えた知的コミュニティの形成とそれを支援するIT基盤の整備を進める」という野心的なプロジェクトだ。現在、ヴァンダービルト大学を中心として、MIT(マサチューセッツ工科大学)、コロンビア大学、テキサス大学、カーネギー財団などが参画している。FIPPは、授業改善研究に興味を持っている教員のコミュニティ(基本的にはオンライン上だが、ワークショップやグループミーティングも催される)を支援するための理論的枠組みやテクノロジーの開発や提供を行い、その過程と成果は広く公開される。また将来的には、早期のFDの役割も兼ねて、大学院生のティーチング・アシスタントを積極的にプロジェクトに参加させる予定だ。本プロジェクトは、当面の間は、ヴァンダービルト大学が提供する潤沢な資金によって運営されるが、プロジェクトの規模の拡大に伴って、外部からの助成を得ることも検討されている。
 これまで紹介してきたアメリカにおける試みを大まかに整理・分類すると、(一)オープンソース化された次世代のオンライン学習システムを開発しているMITのOKI(Open Knowledge Initiative)や高等教育におけるIT基盤の標準化を進めているIMS Global Learning ConsortiumやAdvanced Distributed Learning(SCORM)、(二)オープンソース化された教材のオンラインで共有するMITの「OCW(OpenCourseWare)プロジェクト」やカリフォルニア州立大学連合を中心として発足し、短期間で全国的規模のプロジェクトに成長した「MERLOT(Multimedia Educational Resource for Learning and Online Teaching)プロジェクト」、(三)教授と学習に関する知識を共有し、教育実践を改善するためのコミュニティ作りとそのテクノロジーによる支援を行うカーネギー財団とアメリカ高等教育学会によるCASTL(Carnegie Academy of the Scholarship of Teaching and Learning)プロジェクト、ジョージタウン大学を中心とするVKP(Visible Knowledge Project)、そして今回紹介したFIPP、となる。
 これらのプロジェクトの多くは、最初は、点と点を繋ぐようなローカルな試みとして開始されたが、IT基盤の整備が進められた結果、現在では、プロジェクト同士の「面的」な協力や提携が模索される段階まで来ている。「知のコミュニティ」が急速に進化を遂げていく中で、アメリカの高等教育は、教育の質的改善に向けて着実に歩を進めている。世界の、そして日本の高等教育界が、この動きにどう呼応していくのか、今後を見守りたい。