平成26年11月 第2587号(11月19日)
■高等教育の明日
われら大学人 〈50〉
ホンダの主任研究員から母校の東京電機大学教授
清水康夫さん(60)
華麗なる転身だ。今年六月、自動車メーカーのホンダの(株)本田技術研究所の主任研究員から母校である東京電機大学(古田勝久学長、東京都足立区)の工学部機械工学科教授になった。清水康夫さんは、ホンダの主任研究員といっても只者ではない。従来の油圧制御方式だった自動車のパワーステアリングの電動化(EPS)に世界に先駆けて成功、自動車の燃費向上、排出二酸化炭素削減など環境問題にも大きく貢献した。さらに、ステアリングギヤ比は一定という自動車誕生以来の考え方から脱却、世界で初めて車速によるギヤ比の可変化(VGS)に成功。安定したハンドル操作が行えるようになり、運転する喜び・楽しさ、安全性を向上させた。「既成概念などの殻を打ち破れ」と学生にエールを送る清水さんに、技術者としての歩みや有り様、そして発明はどのように生まれるのか?などを尋ねた。
「技術は人なり」を胸に発明
学生に檄「殻を破れ」 世界初 パワステ電動化
技術者として運命の赤い糸に結ばれている。1954年、群馬県藤岡市に生まれる。市内の小中学校から県立藤岡高校に進む。同高OBには、零戦の設計者の堀越二郎、自動車の自動変速機(オートマチック)を開発した服部虎男がいた。
二人とも日本の伝説的な技術者である。堀越は、戦後はYS―11の設計に参加するなど日本の旅客機設計の草分けとなった。服部は、ホンダマチック・トランスミッションの開発者として、ホンダの先輩の技術者でもあった。
「堀越二郎、服部虎男の両先輩は、幼いころからあこがれの的でした。群馬の藤岡は、独創性を重んじる風土があり、子どもの頃、他人の真似をすると、兄や姉から“人の真似をするんじゃない”と叱られた記憶があります」
どんな子どもだったのか。「藤岡は、浅間山の火山灰から鬼瓦と近くの富岡製糸の原料である蚕の生産の街。家は農業を営み3人兄妹の一番下で、子どものときは、カブト虫を取ったり、川で魚を取ったりして遊んでいました」
「大きな農家で、兄は田んぼの手伝いなどをやっていましたが、ぼくは手伝いから逃げるのが上手だと親戚からよく言われました。親は、家を継ぐのは長男だから財産分けをしない、その代わり何をしてもいい、と教育にはお金をかけていました」
「勉強はそこそこで、運動万能でした」。高校に入って運動をやめて写真部に入った。写真部では撮影でなく、カメラの分解に夢中になったという。当時、ソニーの新製品のテープレコーダー(TC100)を親に買ってもらった。
機械いじりが大好きだった。「どういう構造になっているのか、不思議で不思議で、分解して調べました。モーターのコイルが1本でも切れると動きません。分解しては組み立て、納得するまで取組んだものです」
大学は、総合大学の工学部も視野にあったが、東京電機大の工学部精密機械工学科(現機械工学科先端機械コース)に進んだ。「自分のやりたいことが出来そうだと決めました。精密な機械を動かして新しいもの、役に立つものをつくるんだという青い気概がありました」
大学では、「当時最先端の主にモーター制御を使った義手を開発研究しました」。大学生活は、「高円寺に下宿、流行っていたアコースティックギターに凝って、自分で曲を作って歌ったり、当時の一般的な大学生ではなかったのかな」
大学卒業後は、地元群馬にある血圧計などをつくる精密測器会社に就職した。「給与など恵まれていたが、モーターを使って自分でやりたいことをやってみたい」と、一年足らずでやめた。
本田技術研究所に入社する。車のエアコン、ブレーキ、変速機など「一通り研究した」。転機は、29歳のときだった。「EPSの提案をした。油圧ポンプを使わずに必要に応じて動力供給できる新たな方法を思いついた。小さなモーター(電動化)でも事たりるという手がかりをつかみました」
電動化は電気メーカーも取り組んでいたが実用化はできなかった。「自動車メーカーだからできた面もあります。燃費を向上させ、環境にもいい、既存の油圧式を超えるものを作るという高い目標を立て、車を運転し、試行錯誤を繰り返し、実用化までは7年かかりました」
清水さんにとって発明とは?「既成概念にとらわれず事実を見逃さないことが発想の転換に繋がります。それが発明の第1歩になります。急ぐあまり本質を見失ってはいけない。発明には近道も抜け道もありません」
清水さんの発明は、即特許になった。日本の自動車・輸送機器業界における注目度の高い発明者のトップクラスに入る。特許について語る。「特許は、会社のものか、個人に帰するのか」という議論にも触れた。
「特許は発明に与えられる権利で、発明者を保護するためにある。有効なものを提案して実用化したのだから、一定期間、独占的に利益を付与されるのは当然です。特許は個人に帰属しないと発明者のメリットはなくなり発明は生まれません」。ノーベル物理賞受賞の中村修二さんと同じ考えだという。
発明に繋がったのがホンダの「ワイガヤ精神」だった。ワイガヤ精神とは、「集団でゼロから考える共創作業で、目的は、目標を共有して本質への深堀を進めることです。セレンディピティ(幸運の発見)が出るまで議論し続けます」
具体的には?「目的・目標の思考共通を進め、既成概念・固定観念を取り払い、強い欲求・思いを醸成して『気付き・ひらめき』の現場発見力を喚起します。集団でゼロから考える共創作業と言い換えてもいいかもしれません」
気付き・ひらめきが発明に?「経験的に言うと、理論で辿り着ける範囲を超えた『気付き・ひらめき』は、時として、アウトプット創出が、1プラス1が3となりうるセレンディピティ効果を生み出すのです」
「ワイガヤ精神」が結実した挿話を話す。「ホンダではH1300という初のセダンで苦い経験をしました。当時、『最高の技術で作られた最低の車』と言われました。次の車が失敗したら、4輪事業からの撤退を考えたほどです。
そこで、1人の人間が直接、掌握・指揮できる規模には限界がある。取り扱う対象がその規模を超えたときに、1人の人間に代わって、集団による思考と行動が必要だと考えました。そして、ヒット車の初代シビックが誕生しました」
大学では、電気工学、先端自動車工学などを講義する。大学での生活はいかがですか?「先生になるつもりはなかったのですが、若い学生と一緒というのは刺激になり楽しいですね。目下、来年の教科書(「先端自動車工学」)づくりに懸命です。会社時代と違ってスタッフがいないので大変です」
先生の時代と今の学生の違いは?「私なんかボーッと4年間過ごした気がします。今の学生は優秀だし、研究室に押しかけてきて『どんな研究をするのか』、『研究のため学内泊り込みの申請をしてほしい』と積極的です」
彼らに言いたいことは?「理論や既成概念、常識といったことにしばられ殻を作っているように見える。それも必要だが、新しいものをつくるには、殻を破ってほしい。理論を外れたところに新しいもの、発見がある。研究者、技術者になった時、不利な状況に陥ることもあるが、それを乗り切った後に成功があると言いたい」
技術者とは?「技術者は、新しい技術によって新しい未来を予感させ作り上げ、未来を変えることもできる。新技術には課題も見つかることもあるが、それを解決し律するのも技術者です。技術は人なり、ということです。これは日本10大発明家で東京電機大学初代学長の丹羽保次郎博士の理念です」
最後は、技術者の赤い糸に還った。「未来は発明により、発明は技術により、そして技術は人によるものです。私は、堀越二郎、服部虎男という偉大な技術者を生んだ群馬県藤岡で生まれ育ち、東京電機大学で技術者の礎を得ることができたのは幸運でした」
しみず やすお 群馬県出身。博士(工学)。1978年、東京電機大学工学部精密機械工学科卒業。1990年、本田技術研究所主任研究員。電動パワーステアリング(EPS)と、可変ギヤ比ステアリング(VGS)を世界に先駆け開発・実用化した。自動車技術に関係ある優れた論文発表や自動車技術の発展に役立つ新製品または新技術の開発での受賞は多数。2009年、文部科学大臣表彰(科学技術賞(開発部門))、2011年、学問技術・発明の分野で紫綬褒章を受章。自動車技術会会員・日本機械学会会員。趣味は、音楽とドライブで、「自分で作曲してCDを作りたい、週末は自分で開発したオープンスポーツカーS2000V(VGS)でドライブを楽しんでいます」