平成25年6月 第2528号(6月26日)
■「学び続ける教師像」をどう考えるか (上)
筆者の専門は教育哲学である。主に近代ドイツの教育思想と教育人間学を研究し、日本における教育人間学の構築に取り組んできた。また国立大学及び私立大学で、36年にわたって教育哲学の視点から教員養成に深く関わってきた。こうした専門と教育経験を踏まえて、これからの時代において望まれる教師像とその養成のあり方について、私見を述べてみたい。
1、「問いかける力」― 人類の教師
「人類の教師」(Educator of Mankind)という言葉がある。ほぼ紀元前5〜0世紀のヨーロッパ及びアジアにおいて登場したソクラテス、イエス、仏陀などの思想家を指している。彼らは、いずれも書物は残さなかったが、その教えに深く感化された弟子たちは、こぞって師の言行を記録に留めた。言行録は体系的に編纂され、聖なる原典として読み継がれ、世界の精神史、文化史の骨格を象ってきた。
「人類の教師」たちの影響力には計り知れないものがあるが、彼らを今日的意味で「教師」と呼ぶことはできない。彼らは、予めストックされた「文化内容を伝えること」をしなかったからである。むしろ、世俗的慣習や制度に縛られた民衆に対して、人間としての「善き生き方」を問い、「生きることの根源的意味」を「問いかけた」のである。
ソクラテスは、「私は、いまだかつてなにびとの師になったことはありません」(『ソクラテスの弁明』33A)と明言している。これは、同時代のソフィストたちが、社会で役立つ「知識を教えるプロ」として自他ともに認める職業的教師であったのと好対照をなしている。残された史料によれば、「人類の教師」が弟子たちを相手に行ったことは、人生への深い「問いかけ」であり、「対話」であった。少なくとも、社会で役立つ知識の「教え」や「伝達」ではなかった。
2、「教える力」―近代学校の教師
これに対して、近代国家の成立とともに誕生した近代学校の教師(Teacher)たちは、国家の近代化を担う公的組織の一員であるから、予め教える内容を持ち、しかも速やかに効果的に教えるという教授法に長けている。近代社会においては、「学問は身を立るの財本」(太政官布告「学事奨励に関する被仰出書」1872年)である。3R’s(読み、書き、算)を基礎とした学問に励み、実社会に必要な知識、技能を獲得していることが、近代社会では不可欠である。
H.スペンサーや福沢諭吉が説いたように、近代産業社会を生き抜く上では、宗教や哲学などの高尚な理屈を学ぶ前に、世界に目を広げ、自然科学、技術を学び、地理、経済を学び、外国語を学ばなければならない。子どもに教えるべき内容は生活に必要な実学である。したがって、近代学校の教師には、「人類の教師」とは異なって、「問いかける力」ではなく、実社会で役立つ内容を確実に「教える力」が求められてきた。
到達目標や年間指導計画を意識し、IT技術を駆使して、現代社会を構成する知識群を、子どもに分かりやすく、速やかに伝えていかなければならない。効果的な教授法が求められる教師像は、民族の違いを超えて、近代化の途上にある国々の学校に見られる傾向である。
ところが、1970年代半ばに高度経済成長が終焉し、未来予測がしにくい「不確実性の時代」(ガルブレイス)に入ると、将来必要な知識を描くことができにくくなる。これだけ修得しておけば生涯やってゆけるという知識のミニマム・エッセンシャルズの輪郭を示すことが不可能になった。「教える内容」をいくら広げたところで、子どもの未来の生活を保障できなくなったのである。
こうして、「教える内容」ではなく、学習者の主体的な学び方こそが決定的に重要であることが自覚されてくる。ここには、学校教育における「教え」重視から「学び」重視への大きなパラダイムシフトが見られる。教師が「何を教えたか」が重要なのではなく、子どもが「何をどう学んだか」が重要になる。学校は、子どもが生涯にわたって学び続けるための基礎、すなわち自己学習の仕方、探究的な学び方を教える場所になった。
ここでは、教師像も大きく転換せざるを得ない。「将来必要な知識を漏れなく教える」教師ではなく、変動する社会を自律的に生きる主体として、子どもが夢を持って学び続け、自分の納得のいく人生を送ることのできる力を丁寧に育てる教師こそが求められるようになる。
3、「教えつつ問いかける力」― これからの教師像
昨年8月に出された中教審答申「教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について」では、これからの日本の教員養成政策のグランドデザインが示されている。そこでは、グローバル化や情報化、少子高齢化など社会の急激な変化に伴い、諸課題が複雑化しており、学校に求められる人材育成像に関しても新たなフレームが求められるとしている。
「これからの教員に求められる資質能力」として、@「教職生活全体を通じて自主的に学び続ける力」と、A「専門職としての高度な知識・技能」の二点がとくに強調されている。変動し複雑化する社会像と、このような社会に生きる子どもを育てる教師像として「教職生活全体を通じて自主的に学び続ける力」を挙げている点については、全く異論のないところである。
「学び続ける教師像」が提言された背景には、前述したように、社会の著しい変貌と学校教師に対する新しい役割期待がある。筆者は、学校の役割の変化を、近代化型学校からポスト近代化型学校への転換として説明し、これからは、経験、関係性、自己学習、相互学習を通した探究的な学びこそが重要になることを、自著で詳細に述べたことがある。(『学校のパラダイム転換―〈機能空間〉から〈意味空間〉へ』川島書店、1997年)
答申では、「教員養成を修士レベル化し、教員を高度専門職業人として明確に位置づける」として、大学院修士レベルの教育を視野に入れている。職場でも十分研修はできるという意見も聞かれるが、筆者は「高度専門職業人」を養成するからには、大学院レベルを見通した養成が必要であると考えてきた。それは以下の理由による。
教師が行う授業実践には、大別して、@配列された教科内容を順次教えていくプログラム的実践と、A子どもたちが問題に気づき、その解決策を調べ発表するプロジェクト的実践がある。「教える内容」が重視された時代には、プログラム的実践が大勢であり、これによって基礎的知識の定着化が図られてきた。しかし、前述のように、「教える内容」ではなく、子どもの主体的な学び方を育てることが重要になる時代には、プロジェクト的実践の大幅な展開が期待される。
フィンランドをはじめとして質の高い教育を行ってきた北欧諸国の授業では、まさに子どもが自ら学び、自ら考え、発表するプロジェクト的実践を授業の基本としている。PISAの到達度調査におけるキーコンピテンシーを土台とした「新しいリテラシー」の考え方は、明らかにプロジェクト的実践の授業を前提にしている。教育の先進諸国で展開されつつあるプロジェクト的実践の理論と実践、それに基づく新しい授業デザインの研究や構想力が、学校現場における各種の研修だけで身に付くとは到底考えられない。少なくとも大学院レベルにおける学修や研究機関と連携した研修が不可欠であろう。
4、「教えつつ問いかける力」を磨く教師 ― 国際化の時代に
近代化の時代の教育は、基礎的知識を確実に伝えるという量的拡大が中心であった。しかし、ポスト近代化と国際化の時代では、教育の質、つまり子どもの学びの質こそが重要になる。そこでは、模範解答を出せばよいという教育ではなく、様々にありうる解答群を比較検討した上で、自力で納得のいく解答を構成していく新しいリテラシー(総合的知性)の育成が求められる。
高度専門職業人としての教師には、こうした幅広く柔軟な知性と着実な実践力が求められる。幅広い教養と専門的知識、実践経験を重ねつつ、新しい状況の中でも常に学び続けることで、教師に「教えつつ問いかける力」が増殖され、子どもの創造的な学びを拓く授業や指導ができるのである。