平成25年1月 第2509号(1月9日)
■改革の現場
ミドルのリーダーシップ <36>
徹底した授業公開と授業研究で質向上
大同大学
大同製鋼株式会社(現・大同特殊鋼)の出資により、1939年に大同工業学校が設置された後、中部地区の産業界の強い要望に応え、1962年に大同工業短期大学、2年後に大同工業大学が設置される。2009年には現在の校名に変更し、工学部、情報学部を擁する2学部6学科体制となる。徹底した授業改善活動は全国に知られ、2001年から続く授業研究会は190回を超える。このたびは、今井建一常務理事・法人本部長、大矢郁夫理事・大学事務部長、水澤富作副学長・工学部教授、酒井陽一授業開発センター長・教養部教授、児玉鉄男大学事務部次長に話を聞いた。
昼夜開講制の導入等に起因する学生の学力低下等を背景に、1999年4月、澤岡 昭学長は学長就任直後、教育体制改革委員会を発足させる。同年11月に委員会は、「授業憲章」の制定、授業開発センターの発足、標準教育プログラム、キャップ制、研究授業/授業研究会、学習到達度評価アンケートの実施等、一連の教育改革を提案する「教育体制の改革について」を答申。これを受け、翌月には学長を委員長とする教育改革実行委員会が発足して答申内容を順次実行していくこととした。「授業憲章は、授業改善において授業公開すること等を明記したものです。この憲章を制定したことにより、授業公開に後ろ向きだった教員の参加も得られ、授業参観が行いやすくなりました」大矢理事はこう述べる。
同委員会は現在でも教育改革を牽引しているが、改革は順風満帆だったわけではない。「2年かけて教授会とも相当議論しました。授業の公開については、同僚から見られたくない、という意識もあり抵抗もありました。しかし、結果として理工系教員の合理主義が良い方向に働き、また最後は学長のリーダーシップで決まりました」と児玉次長。実は教育改革のシナリオは、各種委員会委員長を務めた曽我静男教養部教授が構想してきたもので、1995年にはすでに曽我教授の頭に青写真ができあがっていたという。さらに答申後は、学長をサポートする形で現在の教育改革の原型となるアイデアを提示した。
教育改革の中核的活動とも言える授業研究会は、『授業参観+討論』という形式をとる。研究授業終了後の討論までに受講学生の授業アンケート結果が集計され、研究授業参観教員に配付される。授業方法、授業内容それぞれに司会を付け、別々に討論が行われる。授業開発センター所員は各学科の教員の中から10名程度が兼任し、“義務として”授業研究会に参加しなければならない。こうして行われた討論結果は「授業批評」という所報(年4回発刊)に掲載され、全学に配付される。酒井センター長は「曽我教授が開発した研究会のこの方法は第1回から何も変わっていません。『研究授業を参観し授業研究会に参加する』こと自体が、FDになっています。『授業批評』を基に作ったのが『みんなでつくる大同大学の授業』という書籍です。実践的な授業改善方法を掲載しています」と説明する。年に16〜18回、通算190回開催しており、7、8年で教員全員が授業公開を経験することになる。「センター所員になること自体もFDです。自分が授業評価されることはもちろん、人の授業を評価することも大事で、それが積み重なって良くなってきていると思います。研究授業は理事長、事務職員も見学できます」
更に同大学のユニークな教育改革の取り組みを紹介しよう。
まず、授業開発助成制度である。授業を良くするための取り組みを財政面で支援する。科学研究費補助金の制度に似ている。教員から申請を出してもらい、センター運営委員会で審査の上、助成金を出す。
次に、「授業」をテーマとするシンポジウムの開催である。教員全員に参加義務はないが、毎年1回、テーマを決めて教員に講演をしてもらい、ディスカッションを行う。これまでのテーマは、「学生に考えさせるか、覚えさせるか」「教えることにおける『親切さ』の功罪」など、本質的である。
授業改善依頼制度は、学生の授業評価が定められた基準を下回った場合、学長名で授業改善するように依頼を出すもの。受け取った教員は自分の授業を振り返り検討する。
最近、初年次教育検討委員会の答申が出た。背景には、目的意識が明確ではない学生が増えてきたことが挙げられる。「これまでは教員側が授業を改善してきましたが、それでは十分ではないことが分かってきました。教員が頑張るのはもちろん、学生にも頑張らせる仕組みを作らないといけません」と今井常務理事は指摘する。
大同大学の教育改善活動は10年の積み重ねの上にあり、新しいステージを迎えようとしている。
実効性ある改革をつくる厳しい提起と徹底した議論
桜美林大学教授、日本福祉大学常任理事 篠田道夫
大同大学の教育改革は、1995年、「教育重視型大学への自覚的転換」の教授会決議に端を発する。翌96年には学生授業評価スタート、全授業の評価結果を印刷公表する当時としては画期的なものだった。しかしその後改革は中断、1999年に就任した澤岡現学長が、改めて教育重視型大学への自覚的転換決議に恥じぬ教育の実現を強く求めた。これに応えた答申「教育体制の改革について」を、その後の教育改革を一貫してリードしていく曽我教授が主査となり取りまとめた。そこには教育の危機的事態に立ち向かうことなく改革を先延ばしにしてきたことへの痛切な反省、基礎学力の急速な低下、授業について行けない学生の急増、偏差値評価による劣等意識、目的意識の希薄化の進行などの現状への深い憂慮と学生育成にかける強い思いが語られている。
この答申で国内でもまれな厳しい制度、1セメスター20単位のキャップ制導入、科目精選、学部4年間の標準教育プログラムを作り全ての授業科目に5〜8の学習到達目標を設定、卒業時の学力保証、形骸化した単位制度の実質化も狙った。制度改革は2000年にはほぼ固まった。しかし立派な教育課程があっても最後は個々の教育実践にかかっている。そこで大同工業大学授業憲章2001「教育重視大学としての使命を果たすために、全授業の公開を原則とし、持続的に…研究授業と授業研究会を実施する」を提起した。しかしこれには著しい抵抗感があり、激しい議論が巻き起こる。最大の問題は授業密室意識、授業者王国意識であり、守旧的意識を払拭し授業は公共財であることを覚醒させることが不可欠だった。一年近くに及ぶ教授会議論の末、2001年憲章採択、その推進のためのFD組織として授業開発センターを立ち上げた。全国に先駆けて全授業を公開、研究授業を開催、その日の夕方授業研究会を実施、各学期9回、年18回、専任教員から順番に始め非常勤へ、完全ローテーションとした。特別なイベントとしてではなく規則的運営による日常化で抵抗感を薄くした。
運営方法も非常に工夫されている。研究授業に先立ち授業指導案やシラバス、過去の授業評価や学習到達度評価結果、成績データなどは全て参観者に配付される。参観者は参観後、定められた授業方法の観点8項目、授業内容の観点4項目に従って評価点、改善点を記載、受講学生にも授業評価を記述式で調査、この両方の集計を夕方の授業研究会に間に合わせる。授業研究会は司会者2人、授業の方法論的観点と授業内容の観点に分けられ、前者は授業開発センターのセンター長又は副センター長、後者は専門が近い教員に依頼する。議論は授業の問題点の指摘、単に批評するだけではなく、あくまで良い授業を共に創っていくための建設的意見を出し合う場だという強い合意を形成してきた。研究授業の見学は理事や事務職員も可。開始から10年で開催は190回を数え、参観延べ人数は2000人を超えた(1回約11人ほど)。研究会の専用室も出来、専任スタッフ二名が配置された。効果は抜群で、授業評価アンケートのプラス評価は年々2〜3%確実に上昇、特に実施前に評価が低かったグループのプラス評価の上昇率は16%〜20%と極めて高い。評価が低い場合は学長名で「授業改善依頼」が行われる。授業開発助成制度も導入され、テーマにより100万円、30万円の授業改善支援を行う。
こうした研究授業/授業研究会の生々しい内容はライブ配信(現在中止)されると共に、年4回『授業批評』誌で全て公開、一部学外にも配付している。「批評」という誌名には、慣れ合い褒め合いを戒め授業改善を進める強い思いが込められている。その後2003年には学習支援センターの設置、現在は初年次教育の改善に力を入れている。
この教育改革を一貫して推進してきたのは学長をトップとする教育改革実行委員会と学長諮問に基づく特別委員会である。ここが中軸となり教授会と繰り返し、時には激しい議論を行いながら時間をかけて合意を作り、妥協せずに改革を積み上げてきた。大同大学はどちらかというと学部レベルの意見が尊重される運営だ。こうした中で改革を貫いたのは学長の強い信念、それを支える副学長等のスタッフの憎まれ役を引き受ける責任感と専門的力量の高さ、常勤理事3人も「学長付き」として教学に参加、事務トップも全学教授会の正規構成メンバーで職員は委員会に正規参画、この経営、教学、事務の一体改革推進体制にある。
日本における先駆的な制度の構築には、教育の根幹は授業改革だという強い信念で教員集団の厳しい自己評価を行い、問題点を徹底した議論で乗り越え、実効性ある制度を根付かせてきた地道な努力の積み重ねがある。