平成24年8月 第2492号(8月1日)
■改革の現場
ミドルのリーダーシップ <24>
移転、教学充実で志願者急増
志學館大学
今年で創立105周年の歴史を誇る志學館学園は、1979年、現・霧島市に文学部のみの鹿児島女子大学を開学した。しかし、1990年代後半、「地方、文系、女子大」という厳しい条件に少子化の波が直撃。前理事長が改革に乗り出し、1999年に現在の志學館大学に名称変更して共学化。また、法学部を設置し、2003年には文学部を人間関係学部に名称変更して心理分野に力を入れ、二学部体制に。更に、現理事長の英断により2011年にはキャンパスを霧島市から鹿児島市に移転することで、三つの条件を克服、見事に志願者のV字回復を果たした。建学の精神は「時代に即応した堅実にして有為な人間の育成」、ミッションは「よりよき社会の創造を担う人材の育成」で、それらを承け、志學館大学は「豊かな教養に裏付けられた実践力と学ぶことへの高い志を持つ人間の育成」を基本理念とし、スローガンには「個性・実践・人間力」と謳っている。一連の改革について志賀啓一副理事長、清水昭雄学長、阿部哲郎学園常務理事・事務局長、長瀬二三男法学部長、冨元典嗣大学事務局長から話を聞いた。
移転前は、設置高校の一つである鹿児島学芸高校及び大学ともに定員割れ。これを受け、理事会は2003年に高校の募集停止を決定。その後の2009年、鹿児島女子短期大学を高校の跡地に、更に2011年、大学を短期大学の跡地に移転した。「特に高校廃校においては、卒業生や在校生等から強い反対がありましたが、経営状況も含めて細かな説明を行い、納得して頂きました。大学の移転においても、霧島市から留まるようにとの申出がありましたが、移転の主旨を説明しました。結果を見れば、玉突きの移転があたかも計画通りに見えますが、決してそのようなことはありません。全教職員の理解と努力のもと一つ一つの移転がまさに一大事業でした」と志賀副理事長は振り返る。
このような経緯もあり学園の中期計画は、特に人口動態、財務計画やキャッシュフローのシミュレーションといった財政面の計画が緻密に設計されている。阿部事務局長は語る。「移転時は、収支から短大と大学それぞれの移転のタイミングを見極める必要がありました。そこで、2007年に企画広報室を作り、各設置校より委員を選抜し全教職員共通理解のもと第一次中期経営計画を作成しました。移転前には学内に悲壮感がありましたが、キャッシュフローを見ると何とかなるのでは、と希望が持てました。キャッシュフロー経営は、急激な少子化の波とこの変化の激しい時代には必要です。その後の2010年には長期経営計画・第二次経営計画を作成し、現在財務上の帰属収支差額は第二次経営計画の1.8倍と順調な推移をしています」。
移転後は大学志願者が急増。中教審の学士課程答申が公表されたタイミングもあり、2009年に教育改革に着手。大学改革推進会議の下に大学教育改革ワーキンググループを設置し、「志學館大学教育改革基本方針」を打ち出した。大学の目玉である「皆資格・高資格の教育」について清水学長はこう説明する。「まず学生全員が何らかの資格取得が可能な基礎力の充実を目指します。『大学が専門学校のようなことを…』という声もありましたが、資格を意識する中で基礎力が磨かれます。学習の明確な目標としての資格は、学生にとっても意欲に結び付いています」。定められた資格を取得した学生には報奨金も与える。法学部で更に意欲のある学生向けには法学研究会という課外勉強会を開催し、学力の引き上げを行っている。結果、上位校の法科大学院に特待生として送り込むまでになった。
「FD・SDの一環として、毎年9月に教職員合同研修会を一日かけて実施して、外部講師を招いたり、大学として求められている課題を共有してディスカッションする場を設けています。2011年度は、大学改革推進会議の中で学生の退学防止問題を討議しました。その中で、『対応ガイド』を作ろうという意見が出てきて、教職員ワーキンググループを立ち上げ、その中で『サポートガイド』を創りました。本年度はよりトータルなサポートを強化するために、学生支援検討ワーキンググループを立ち上げて体系的支援の具体的な検討を始めました」と冨元事務局長。
「一連の改革について、立地の問題が一番大きかったと今は思いますが、当時は何が原因かは分かりませんでした。移転前はそんなことをしても駄目じゃないかという意見も当然ありました。思った以上の成功でした」と志賀副理事長は振り返るが、時代のニーズに合わせた不断の改革の結果であろう。
大きな事業展開を支えた中期経営計画、教育改革基本方針
日本福祉大学常任理事/桜美林大学大学院教授 篠田道夫
大学設立時から日本最南端の女子大学を標ぼう、霧島市の立地を強みにしようと特色ある教育づくりに努めてきた。しかし、10数年ほど前から少子化の加速とともに、交通アクセスの問題等から志願者の減少傾向が始まった。1999年には男女共学に転換、大学名も現在の志學館とし第二のスタートを切ったが入学者は回復せず、その後文学部を廃止し人間関係学部に改組、2008年には法学部法ビジネス学科を立ち上げたが、2009年には最悪、収容定員の65%まで落ち込んだ。
この時期、志賀壽子現理事長は学園存続のため強い決意をもって、鹿児島市高麗町にあった併設の鹿児島学芸高校が定員未充足のため理事会に諮り廃校とし、そこに同じ市内にあった女子短大を移転、女子短大のあった鹿児島市紫原に大学を移転する決断をした。移転発表の翌年から志願者が1.5倍と増え始め、2011年には入学定員を大幅に上回る入学者を集め、2012年には収容定員もほぼ確保できるところまできた。
定員割れの時期には財政悪化も深刻となり、徹底した財政説明を行って給与や賞与の減額等を行ったが減収に追いつかず大学移転となった。立地する霧島市や地元出身の理事からは反対の声も上がり難しい決断であったし、連続する移転による校舎の新増設も資金面から今をおいてチャンスは二度とないぎりぎりの状況であった。
高校生の反応等大きな賭けの側面はあったが、何度も財政シミュレーションを行い、これなしには大学再生はあり得ないと確信、強い姿勢で繰り返し説明を行い、理解を広げていった。当初から全てビジョンを描いて進めていった訳ではないと志賀副理事長は言う。時々に直面する困難な課題に正面から立ち向かい、時々に最善解を作り出した到達が、結果として最も良い選択だったということではある。
しかし、こうした決断ができた背景には、危機に立ち向かう創業家の姿勢もさることながら、定員を大幅に満たせない厳しい時代にあっても、大学改革推進会議や将来計画会議を設置し、企画広報部を軸に常に先を見据えながら改革を構想し、長期経営計画を立案し、正しい選択を模索し続けた取り組みがある。特に2007年に活動を開始した企画広報部は、中・長期経営計画の立案、移転事業、法人と大学を一致した政策で結ぶ上で重要な役割を果たしてきた。
定員割れが厳しかった2009年に策定された志學館学園長期経営計画(2010―2015)は、学園のミッションと計画策定の背景を改めて整理した上で、法人、大学が取り組むべき32項目の重点課題を示している。これを受けて中期事業計画、単年度事業計画が策定され具体策が示される。特に優れているのは中期事業計画のテーマ(項目)ごとに3か年の目標を明記した上で、年度ごとの達成目標を示し、9月末と3月末の年2回達成度をA〜Eで評価、最近では達成率80%以上の項目が全体の7割に及ぶなど改革行動に構成員を参加させ、目標前進に大きな役割を果たしてきた。
これに呼応し大学では大学教育改革ワーキンググループが志學館大学教育改革基本方針(2010年)をとりまとめた。この年は入学者最低、存続の危機、移転決断の年。しかし、それだけでは不十分で質保証、学生募集につながる教育改革が不可欠として立案された。
特に専門的能力の強化に着目し、「皆資格・高資格」のオリジナルスローガンを掲げ、この推進方策として報奨金制度(取得資格に対しA10万、B5万、C3万、D1万)と人間力養成ポイント制度(サークルや学生諸活動参加で定められたポイントが加算)を推進している。ふたつの顔が重なりあうシンボルマークの表す通り、アットホームな女子大時代の伝統を受け継ぎ、少人数によるキメ細かな教育、学生指導個人ファイル、出席状況調査、丁寧な卒論指導、学生と共に行う学外調査、内定率95%を誇る就職では個別面談指導を重視、職員が就職希望学生の名前をそらんじることができる。
職員も各課ミーティング、全職員定例会、研修における班別討議の重視や女性職員研修会など参加型の運営を行っている。目標設定や評価時の懇談、指導・助言・行動記録作成を重視する人事考課制度も効果を上げている。
人件費比率を改善するため、「財政状況を教職員の皆様へ」と題する冊子を発行するなど徹底して情報公開、給与・賞与の減額、定昇減額と昇給停止年齢設定、定年切り下げ、教職員削減とパートへの切り替えなどの厳しい措置を、理解を広めながら断行してきた。
これら総合的な努力の中にこそ今日の前進の源がある。