平成24年4月 第2477号(4月4日)
■高等教育の明日 われら大学人〈21〉
大学選手権三連覇の帝京大ラグビー部監督
岩出 雅之さん(54)
ラグビーの大学選手権で天理大学を破り同志社大学以来史上2校目の3連覇を達成。慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学といった伝統校を破っての快挙だった。帝京大学(冲永佳史理事長・学長、東京都板橋区)ラグビー部。チームを牽引したのが監督の岩出雅之さんだ。1996年の監督就任以来、手腕を発揮、スタッフを含めた総合力と団結力で最強のチームに育て上げた。日本体育大学ラグビー部では主将としてチームをまとめた。日体大を卒業後、滋賀県八幡工業高校に教員として勤務、同校を7年連続花園出場に導いた。帝京大学ラグビー部監督になったのは、「少数の有力校に優勝が限られる大学ラグビーに風穴を開けたい」という思いからだ。3連覇までには様々な試練があったが、いま、「何事も、一日にしてはならず、です。大事なのは情熱と根気」と振り返る。見事に結果を残したラグビー指導者の歩みを追った。
大事なのは情熱と根気
7割の法則で栄冠つかむ 「教育は難しいが魅力も」
帝京大ラグビー部の魅力は、浅井 洋部長の言葉に尽きる。「高校時代の実績は他大学と比較しても傑出したものではない。普通の人間が一生懸命やれば、あれだけのことができる。そういった部分を評価し、多くの方々に感動していただいていると考えています」
岩出さんとは、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅で降り、車で15分の帝京大ラグビー部クラブハウスで会った。玄関を入ると、靴箱は整頓され、入口や廊下はきれいに清掃されていた。すれ違う学生からは次々に「こんにちは」と声をかけられた。
「挨拶、掃除、規律が大切、と学生には言っています。面倒くさいことをきちっとやることは大事なことではないでしょうか。上級生が見本となって実践し、下級生に、それが引き継がれています」
1958年、和歌山県新宮市に生まれた。どんな少年でしたか?「巨人大鵬卵焼きの世代です。小学校のころはソフトボール、中学では野球少年でした。中学3年のとき県大会へ出場したんですが、補欠で悔しい思いをしました」
和歌山県立新宮高等学校へ。「ラグビー部の先生に勧められて入部したんですが腰を痛めて退部、2年生の夏、教育実習に来た日体大ラグビー部のOBから再入部を勧められ、初日の練習で『おまえはいいタックルをする』とほめられました。以来、本気で取り組みました」
「教員志望だったのと、浪人するのは嫌で」日体大へ。同大ラグビー部では3年からフランカーとしてレギュラーで活躍。「卒業後は、学校の先生として高校のラグビー部の顧問になって、花園に行きたいと思っていました」
大学卒業の際、滋賀県の教員採用試験を受けて合格。ところが、最初に配属されたのが公園の管理人だった。やがて、学校に配属されたが、今度は高校ではなく中学校。次の異動で高校に赴任したがラグビー部はなかった。
「心が折れそうになったことが何度もありました。しかし、辞めてしまったら終わり。目の前の仕事を無我夢中にこなすうちに、夢がかないました」。30歳で、八幡工業高校に赴任、ラグビー部顧問に。高校ラグビー日本代表監督にもなった。
1996年、帝京大学ラグビー部監督となる。就任2年目、ラグビー部は試練に見舞われる。部員の不祥事で1年間、公式戦を辞退することになった。
「とても厳しい体験でした。選手も親もつらいし、関わっている人間すべてがつらかった。ラグビーオンリーではなく、人生のゴールに向けてラグビーというエネルギーをどう使うか、を一所懸命考えました」
生活全般を見直した。挨拶、掃除、規律の順守。「朝起きて学校に行く。講義を真面目に聴く。練習はさぼらない」と説いた。すべての部員を寮に入れることにした。集団生活のなかで「規律」の大事さを学ばせるためだ。
組織の見直しも行った。「学生コーチ」の制度化。新4年生はまず、ミーティングを開き、2人の学生コーチを選出。学生コーチを決めた後、新キャプテンを選出する。「狙いは、先頭を走るのは学生であることを自覚させることにあった」
チームづくりの転機は01年の大学選手権1回戦。このチームなら決勝進出も、と臨んだが、けが人が続出、負けるはずのないチームに負けた。「なぜ、けがをするのか。けがをしないための体づくり、環境づくりに取り組みました」
チームづくりの転機
栄養士が、練習メニューに合わせ、カロリー計算をして献立をつくることになった。「最近では、栄養士は、どこの大学も置いているが、どこも生かしていないような気がする。使う側の問題だと思う」。改革は食生活だけにとどまらなかった。
練習環境の整備を行った。「潤沢ではない部費を節約して、毎年、100〜150万円ぐらいかけてウエイト器具を買い足していった。トレーニング場ができるまでは、学校の部室の廊下などで筋力トレーニングに励んでいました」
結果が出てくると、大学側もサポートする。大学選手権でベスト4に入った翌03年、土のグラウンドから、現在の人工芝のグラウンドに移転。04年、トレーニング場が完成し、07年、天然芝のサブグラウンドもできた。
そして、栄冠を勝ち取る。09年度の大学ラグビー選手権では決勝で東海大学に勝利、創部40年目にして初の大学日本一に。10年度は決勝で早稲田大学、11年度は天理大学を破った。
「7割の法則」が結実した。「4年間と言う学生の持ち時間を考え、目標を設定。全体の7割が達成できることをスタンダードにします。ベンチプレスの目標を3割が可能な120キロにしたなら、空気が萎えます。7割が持ち上げられる80キロなら、活力が出るし、挫折も少ない。次は85、90キロと増えていきます」
「それらを乗り切った子はレギュラーになります。チーム全体のモチベーションを高めるためには、7割が大事。要は指導者が最初に最高の目標を学生に与えないこと。目標は可視化できるのがいい、無理せず、根気強く計画性を持って取り組む必要があります」
岩出流勝利の方程式
「7割の法則」は、岩出流勝利の方程式といっていいかもしれない。ときに、帝京大ラグビー部のチームスローガンは何年も変わっていない。『エンジョイ』と『チームワーク』。
「エンは創る、という意味がある。目標に向かってジョイ、喜びを創る、ということ。自分だけでなく、チームでエンジョイする。一人では何もできない。仲間のシナジーが大事、それがチームワークなのです」
最近の若者について聞いた。「我々世代は放任で、自分で行動した。最近の若者は、大事にしてくれる親もあって依存性が強い。環境や資質が違うので批判はしない。平成生まれはデジタル時代の申し子ということもあって反応が早く、感性も鋭い、などの魅力もいっぱいある」
どう育てればいいのか?「依存性が強く、自分から行こうとしない、若者を変えるには、体験させることだと思う。うちは寮生活を体験させているが、1年生は戸惑うが、3、4年になると自主性、積極性が出てくる。今も昔も若者の体質は変わっていないし、悲観はしていません」
岩出さんの「7割の法則」は、いまの若者の指導にも活かされそうだ。最後に、これからを聞いた。ラグビー部のことと、そして、自身のこと。
ラグビー部から。「大学日本一が全てではない。ここで得た多くの財産が人生に活かされるようにしたい。ラグビー部を、より学生が成長できる組織にしていきたい。それには、入口でも出口でも夢のある提示ができないとだめだと思う。共に、汗を流して、努力して、成長できるようにしたい」
自身のこと。「教員をめざして中学、高校、大学と子どもたちと関わってきた。いまも、学生にとって何が必要かなどを助言するという教員の仕事は変わらない。人を教え、育てるのは難しい。自ら学ぶ姿勢を忘れてはいけない。教育は、難しさもあるが魅力もいっぱいある」。岩出監督は卓越したラグビーの指導者であり、根っこからの教育者なのだ。
いわで まさゆき 1958年、和歌山県新宮市生まれ。県立新宮高等学校から日本体育大学体育学部へ進む。同大学ラグビー部では主将としてチームをまとめた。卒業後、滋賀県立八幡工業高校に勤務。同校を7年連続花園出場に導く。96年から帝京大学ラグビー部監督となる。2009年度大学ラグビー選手権大会で同部を創部40年目にして初の大学日本一に導いた。同年から大学選手権3連覇の偉業を成し遂げた。現在、帝京大学医療技術学部スポーツ医療学科教授。