平成23年10月 第2457号(10月5日)
■高等教育の明日 われら大学人
日本映画大学の学長は
日本を代表する映画評論家 佐藤 忠男さん(80)
異色な大学の出色な学長である。大学は日本映画大学(川崎市麻生区)、学長は日本を代表する映画評論家の佐藤忠男さん。映画を鋭く分析し、評論し、アジア映画を中心に世界の知られざる映画を発掘・紹介、日本の映画界全体の発展に寄与してきた。日本映画大学は、今村昌平監督が1975年に作った「横浜放送映画専門学院」(2年制)が前身である。今春から大学となった。佐藤さんは、専門学校時代から授業を持ち、96年から校長を務めた。専門学校の卒業生には、「十三人の刺客」の三池崇史監督、「悪人」の李相日監督、作家の阿部和重氏らがいる。映画大学は、専門学校の良さを踏襲している。一般大学の映画学科と異なり、撮影、照明、録音、美術、編集など映画現場の専門家が手とり足とり、実習で教える。「偏差値秀才だけを集める気持ちはない」、「おもしろい若者が集まる場として世間に感じてもらえる大学に…」と話す。大学人たる佐藤さんの映画の夢は限りなく広がる。
「映画には夢がある」
実習中心で教える 今村昌平の「志」を継ぐ
佐藤さんが、大学の開学前に日本記者クラブで行った講演は、実にユニーク、いや正直だった。「こういうことを私がいうとまずいが、撮影所は大学よりすばらしい学校だった」。日本映画大学のねらいや映画への思いを語るなかで述べた。
また、女優のエリザベス・テーラーの追悼談話(2011年3月29日、産経新聞)も印象に残っている。「1950年代の“豊かで無邪気なアメリカ”を象徴した女優だった。私は映画評論家になる前に、新潟県の映画館で『緑園の天使』(45年)に出演している彼女を初めて見た」
「そりゃあもう、かわいかった。当時、きれいな女優や演技のうまい女優は山ほどいたが、彼女の初々しさは飛び抜けていた。(中略)彼女が亡くなったと聞いて、一つの時代が遠く遠く過ぎ去ったような気がした。米国の運命を背負ったような、そんなスケールの大きな女優は、もう二度と現れないだろう」
新潟市の出身。新潟市内の工業高校を卒業。予科練を体験した。新潟で国鉄、電電公社等に勤務。当時から『映画評論』の投稿欄に盛んに投稿。1956年刊行の初の著書「日本の映画」でキネマ旬報賞を受賞した。
1954年、『思想の科学』に大衆映画論「任侠について」を投稿し、評論家の鶴見俊輔から絶賛された。映画批評というと、小津安二郎や溝口健二や黒澤明などの作品を論じるものが多いが、ヤクザ映画を論じた着眼点が注目された。
その後、上京して『映画評論』、『思想の科学』の編集にかかわりながら、評論活動を続けた。60年代半ばから評論活動のウイングを広げ、教育関係の論文(「少年の理想主義」や「権利としての教育」)にまで及んだ。
横浜放送映画専門学院=日本映画大学との関わりは、今村監督に誘われてからだった。今村監督は、「豚と軍艦」や「赤い殺意」などの名作で、当時、日本を代表する映画監督になっていた。
「今村さんは『既設のレールに乗せられる人生を拒否する若者よ、集まれ』と呼びかけ、そのアピールに心を動かされた若者が次々に入ってきた。監督では三池崇史、本広克行、佐々部清、脚本家の鄭義信、作家の阿部和重、キャメラマンでは山本英夫、タレントのウッチャンナンチャンら多彩な人材が集まった」
「三池は、授業はさぼって出なかった。今村さんのロケ現場に寝袋ひとつで押し掛けていた。今村さんは“アイツは見所がある”と制作プロを紹介した。阿部は高校中退だったが、今村さんは“高校中退でも凄いやつがいる”と買っていた」
まるで撮影所のような学校だった。「撮影、照明、録音、美術などのバリバリの現役が教員となった。監督では、篠田正浩、浦山桐郎、黒木和雄が来た。吉村公三郎、今井正、大庭秀雄といった大監督も教えに来てくださった。日本の映画制作の二割ぐらいはここの卒業生でしょう」
佐藤さんは、映画史の授業を担当した。「洋画は淀川長治さんが、邦画は私が担当しました。毎回一本ずつ名作を大スクリーンに上映した上で、その作品の意味をたっぷりと喋ったものです」
1985年、学校は現在の川崎市麻生区の小田急電鉄新百合ヶ丘駅前に移転して3年制の専門学校「日本映画学校」として再出発する。佐藤さんは96年に日本映画学校の校長になる。
社会人辞めて入学も
「高校を卒業して入学してくる学生が最も多いが、大学中退も少なくなかった。また、大学を出てから社会人になってある程度の地位に就きながら、やはり本当にやりたいことは映画だったと思い直して入学してくる人も珍しくはなかった」
それまでも映画を教える大学はあった。「しかし、大学というところはどうしても教室での講義が主になるので、歴史や理論の勉強が中心になり、実習はつけ足しになる。横浜放送映画専門学院や日本映画学校は実習中心だった」
なぜ、大学にしたのですか?「今村監督は、もっと教育の内容を充実させたいという思いを持っていた。早い時期から出来れば四年制の大学にしたいとも考え、何度か計画を立案していたが、お金がなかったので具体化しなかった」
大卒後に入学した学生が「NHKの注文で作ったドキュメンタリーで国際エミー賞を受賞、やっと収入が入学前にもどりました」と話すのを聞いた。佐藤は、こう思った。「そんな本当に自分のやりたいことにこだわる人たちが来やすく、良い仲間に出会える大学をつくりたい」
このころ、国の大学設置基準が緩和されて実習中心の大学も認める方向になった。ネックだった土地の手当ても、「川崎市が百合ヶ丘駅の周辺を文化的な活力のある街にしたいと小学校跡地を大学用地に提供してくれた。川崎市の協力は大きかった」
教養科目充実させる
大学になって、どこか変わりましたか?「出世したとは思わない。教育期間が3年から4年になり1年間増えた。この1年の間に、社会学や哲学、語学など教養科目の講義を充実させたい。こうした素養を身につけないと、これからの映画人はやっていけない」
「受験生の親も、オープンキャンパスにくるようになりました。お陰さまで、今年度の応募者は増えました。合格者には一流大学を出た社会人もいます。映画は夢があるんです。夢だけでなく、映画は人間や社会について勉強になるんです」
今村監督はどう思っていますかね?「喜んでいると思います。専門学校の経営者として苦労ばかりしていた。大学になって社会から認められるようになり、経営の基礎が固まったように思う。あとは、今村さんの夢を実現することです」
今村さんの夢とは?「大学ができたら、広く世界から、とくにアジアから多くの学生を受け容れて、アジアの映画人育成のセンターにしたいという構想を今村さんから聞いたことがある」
こう続けた。「今村さんは“佐藤さんが校長になって国際性が出てきた”と奥さんに言われたそうだ。今村さんは学生の作品を海外の映画コンクールで上映し、学生を海外の映画祭に出すことも考えていた。それは少しづつ実現している」
巨匠といわれる溝口健二、小津安二郎、黒澤明のうち誰が一番ですか?と映画ファンとして最も聞きたかったことを問うた。佐藤さんは「黒澤明の世界」をはじめ「小津安二郎の芸術」、「溝口健二の世界」など日本の代表的な監督の映画論を書いている。
「黒沢は、チャンバラでなく階級社会に立つサムライを描いた。溝口は、町人文化や女性の美しさを、小津は日本の小市民文化を描いた。それぞれ質が違うし、共通の日本的なものはない。それぞれが文化をつくりあげた。上も下もない」
語学教育も強化へ
最後に、佐藤さんの夢は?「グローバル化に気後れしないよう、語学教育を強化したい。映画は世界の文化を統合する最前線。映画による世界の共通認識を作れるよう、学生を育てていきたい」。佐藤さんは、映画の持つ可能性を熱心に、最後まで説くのだった。
さとう ただお 1930年10月6日、新潟県新潟市生まれ、映画評論家。新潟市立工業高等学校卒業。新潟で国鉄、電電公社等へ勤務しながら「映画評論」の読書投稿欄に映画評を投稿。1954年「思想の科学」に発表した「任侠について」で注目された。「映画評論」、「思想の科学」の編集長をへてフリー。演劇、芸能、教育の分野でも評論活動を行っている。1996年、芸術選奨。2010年、国際交流基金賞(文化芸術交流部門)。日本映画学校校長をつとめ、現在は日本映画大学学長。主な著書に「現代日本映画」、「長谷川伸論」、「日本映画史」など。