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教育学術オンライン

平成23年8月 第2451号(8月3日)

高等教育の明日 われら大学人〈14〉
  元広島カープの名将は東京国際大野球部監督
  古葉 竹識さん(75)
  3年で全国ベスト4に  卓越した指導力 一般学生の見本となれ

 広島カープの黄金期を築いた名将である。古葉竹識さんは、「耐えて勝つ」をモットーに広島カープを4度のリーグ制覇、3度の日本一に導いた。その古葉さんが08年4月から東京国際大学(田尻嗣夫学長、埼玉県川越市)の野球部監督に就任。今年の5月、東京新大学野球春季リーグ戦で初優勝を果たし、6月の全日本大学選手権ではベスト4に進んだ。大学野球監督になって、わずか3年の快挙である。プロ野球の名将は、大学球界でも花を咲かせた。全日本大学選手権準決勝で、元巨人の江藤省三さん率いる慶応大学との「プロ出身監督対決」も話題となった。プロ野球の監督時代は鉄拳制裁も辞さない厳しい指導で若手選手を育てた。大学生に対しては、どのような指導をして強豪チームに育て上げたのか、いまの大学生気質をどう見ているのか、これまでの野球人生、そして大学野球監督としての恍惚と不安などを聞いた。

 スポーツ雑誌「ナンバー」(文藝春秋、7月21日号)が「ニッポンの名将特集」を組んだ。「野球界の賢者に学べ」とプロ野球と高校野球の監督を取り上げている。そのなかに、古葉さんも入っている。
 表紙には5人の名将を紹介するとともに、それぞれの名将をイメージする言葉が載る。仰木 彬(近鉄・オリックス)は「人情」、広岡達朗(ヤクルト・西武)は「知性」、川上哲治(巨人)は「常勝」、木内幸男(常総学院)は「直言」。そして、古葉竹識は「育成」だった。
 古葉さんが監督を務める東京国際大は今年の東京新大学春季リーグで初優勝。初めての全日本大学選手権出場を決めた。古葉さんは08年春から東京国際大を率いているが、これまでは09年秋の2位が最高だった。
「早く、神宮球場に行こうと全日本大学選手権を目指してきた。ようやく、ここまで来たか、という思いでした」。全日本大学選手権出場について語った。
 東京新大学リーグは、東京近隣地域に所在する23大学の硬式野球部で構成、全日本大学野球連盟の傘下団体。4部まであり、東京国際大学のほか、創価大学、流通経済大学、東京学芸大学、杏林大学、共栄大学が1部リーグで戦っている。
 全日本大学選手権は、全国に26ある大学リーグの各優勝チームが大学野球日本一を競う。東京国際大は1回戦で龍谷大学を延長10回、3―2で、2回戦で東京情報大学を延長10回、3―1で勝って準々決勝へ。
 準々決勝は日本体育大学に1―0で勝利して6月11日、慶応大学と準決勝で対戦。元巨人の江藤さんと古葉さんのプロ出身同士の対決となったが6―4で慶応大学に負けた。江藤監督の兄(故・慎一さん)は古葉さんとノンプロ球団(日鉄二瀬)で一緒だった。
 「江藤さんは慶応の監督になってすぐに優勝もしているし、よくやっていると思っていた。兄さんは1歳下だが高校のときには対戦したし、日鉄二瀬では一緒にプロ野球をめざした。慶応に負けたのは残念だが、不思議な縁だと思った」
 古葉さんは1936年、熊本生れ。野球人生は終戦の小学校3年生からスタート。「三角ベースで兄に誘われ野球を始めた。背は小さかったが足が速かった。市内の小学校の大会で優勝したとき、『豆ジープが奮闘』と地元紙に書かれた」
 熊本の名門、済々黌高校に進学。二年生の春、遊撃手として甲子園に出たが、2回戦でサヨナラ負け。55年に専修大学に進む。この年の夏休み、済々黌高で練習中、日鉄二瀬の濃人渉監督から勧められ専大を中退して同社に入社。「実家の経済事情もあるが、鉄拳制裁が当たり前の大学野球からの逃避もあった」
 58年に広島に入団。「3球団から誘われたが、濃人監督の『広島なら試合に出るチャンスもある。プロに行って母さん(高二のとき父を亡くす)を楽にしてやれ』という言葉でプロ入りを決めた。いまがあるのは、濃人さんのおかげです」
長嶋と首位打者争い
 カープでは、1年目から遊撃のポジションに定着。63年には巨人の長嶋茂雄さんと熾烈な首位打者争いを演じた。長嶋さんとは入団も同期だった。古葉さんは、長嶋さんとの思い出を、昨日のことのように話した。
「63年の対大洋ホエールズ戦で島田源太郎のシュートをあごに受けて負傷退場した。入院中、長嶋さんから『キミノキモチヨクワカルイチニチモハヤイゴゼンカイヲイノル』と電報が届いた。熱く、優しい素敵なスポーツマンだった」
 64年、68年と、二度の盗塁王に輝いたが、71年に現役引退。75年、ジョー・ルーツ監督の後を継いで監督就任。球団創設初のリーグ優勝をもたらした。「機動力を活かした緻密な野球」で赤ヘル時代を築いた。
 08年4月から東京国際大学の野球部監督に就任。同大は、大学スポーツに力を入れている。男女サッカー部、ソフトボール部には日本代表選手を監督として招請。今年は駅伝部を新設、「5年で箱根駅伝出場を目指す」と張り切っている。
ミスしたら、すぐ指摘
 失礼ながらお聞きしますが、なぜ、それほど強くもない大学野球部の監督を引き受けたのですか?古葉さんは嫌な顔は見せず、こう答えた。
 「理事長先生から話を聞きたい、というので何度か野球の話をしました。その後、『あなたの言うとおりの球場をつくったので見て欲しい』といわれ、見に行ったら『もし、うちに来てくれれば、もうひとつ球場をつくる』といわれました。そこまで自分を評価してくれるのか、と義侠心が働きました」
 「育成」について聞いた。広島時代、ベテランに代わる若手を厳しい指導で育てたことで知られる。「他の大学との比較で、あの中から三人でいいからウチに来ないかな、と考えたこともありました。しかし、このチームに何が足りないかを理解し、与えられた選手を徹底的に鍛えるしかない」
 プロの選手と大学生の指導で違う点は?「基本的には変わらない。試合中に選手がミスをしたとき、すぐに問題点を指摘する。試合後に指摘しても選手は聞く耳を持たない。学生には、ケガにつながるから休み時間に体を動かしておけ、と口をすっぱくして言っています」
授業には必ず出ること
 大学生の指導について続けて話した。「野球人である前に、学生であることを忘れるな」と、常々こう言っているという。「挨拶すること、授業にはきちんと出ること、野球部員として恥じない行動を心掛けること。そして、一般学生の見本となれ、と」
 今の大学生の気質について?「今の学生の父親も母親も厳しいことを言わない。部員は4年間一緒に過ごすので、子どもや孫みたいなもの。社会に出てから何事にもきちんと対応できる人間になれ、それが就職にもつながると厳しく言っている」
 「最初は、私の話を聞かない学生もいたが、最近は聞くようになった。就職の世話もしますが、内定が決まったときは子どもや孫のことのようにほっとします」。うれしそうな顔をみせた。
 そうそう、古葉さんといえば、試合中、いつもベンチの端に立っていた。このポーズを漫画家のやくみつるらにネタにされた。いまもそうしているんですか?
 「いまも、そうです。あそこが一番グラウンド全体が見渡せる場所なんです。打者や走者の動きも、投手が投げる球種も、ヒットを打たれたときの野手の動きも、すべてわかります」
 細部に悪魔が宿る、という。古葉さんは、ベンチの端にいつも立つことで、そこで見つけた選手の小さいミスを即座に指摘する。この小さな積み重ねが勝利につながる。これが、広島カープの黄金時代を築き、東京国際大学を全国のベスト4に育て上げた原動力なのかもしれない。
「育成」と「細心」
 冒頭で紹介した「育成」という古葉さんをイメージする言葉は言いえて妙だ。もうひとつ加えるとしたら「細心」。この言葉がピッタリする。
 最後に、全国ベスト4の次の夢は?「慶応に負けたときの挨拶で、75年にカープが優勝したときの話をしました。街中が大騒ぎになって歓迎してくれました。ここまで来たんだから、次は75年と同じ思いをしたいですね」。古葉竹識、75歳。いまだに夢みる野球人であり、そして大学人である。

 こば たけし 1936年、熊本県熊本市生まれ。済々黌高校から55年に専修大学に進むが中退してノンプロの日鉄二瀬から広島カープに入団。監督として広島東洋カープを球団史上初のリーグ優勝に導き、リーグ優勝4度と赤ヘル黄金期を築いた。最優秀監督賞4回、正力賞、セリーグ特別賞などを受賞。大洋(現横浜)でも指揮を執った。1999年に野球殿堂入り。現在、東京国際大学野球部監督のほか、NPO国際青少年体育協会理事長、少年軟式野球国際交流協会理事長などにも名を連ねる。座右の銘は「耐えて勝つ」。同じ題の著書もある。


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