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平成23年7月 第2448号(7月6日)

高等教育の明日 われら大学人〈13〉
  行動し、発言する政治学者
  鉄道にも造詣三陸鉄道支援 天皇論など著作も多数
  慶應高校から早大へ 明治学院大学教授
  原 武史さん(48)

 行動し、発言する学者であり、かなりの論客だ。数多くの著作を出版する一方、鉄道にも詳しく、こちらでの活躍も際立つ。明治学院大学国際学部教授、原 武史さんは、天皇制研究と著作で多くの賞を受賞した気鋭の政治学者。何より、経歴がユニークだ。慶應義塾高校から慶應義塾大学には進まず、ライバルの早稲田大学で学んだ。早大卒業後、国立国会図書館職員に就職したが、「単調な仕事に飽きた」と退職。日本経済新聞社に入社、東京社会部記者として昭和天皇の病状報道に携わる。日経新聞も「自分の時間がない」と辞めて東京大学大学院へ。山梨学院大学法学部助教授を経て現職に。「大学の教員は駅そば屋の店員みたいなもの」と言ってはばからない。教室の授業だけではなくフィールドワークを重視する教え方は、学生の人気も高い。教授という大学人の枠を超えた大学人といったら失礼か。そんな原さんに、これまでの歩みと現在のこと、そして大学の在り方などを聞いた。

 まず、「大学教員 駅そばの店員論」を尋ねた。明治学院大の入学式で、こう話したという。「学生は、教員の味を知らずにたまたま出会う。そんな学生には最高のものを提供しなくてはならない。だから大学の教員は駅そば屋と同じだ」。ぶっきらぼうだが、まっすぐな人だ。
 原さんは、1962年、東京都渋谷区で生れた。父親は、厚生省(当時)の技官。東久留米市で育ち、ずっと西武沿線の団地に住んだ。滝山団地に住み、東久留米市立第七小学校に通ったとき体験したことを『滝山コミューン1974』(講談社)にまとめた。
 「児童が運営する代表委員会が設けられ、運動会の運営を一部の代表委員が決めたことに異議を唱えたところ自己批判を求められました。大人になっても消すことができない体験で、本にすることで自分なりに決着させたかった」
 中学は、東大進学トップの開成中学を受験するが失敗、慶應義塾普通部(中学)に進む。「入りたくて入ったわけではないので、慶應のシステムが自分に合わなかったのもあるが、階層のギャップがあって、なじめなかった」と話す。
 「こっちは団地住まいだが、同級生は田園調布とか松濤、等々力とか高級住宅地のマンションか一戸建てに住んでいた。うちより狭い家はなかった。お手伝いさんがいたり、お母さんがきれいでお姉さんみたいだった」
 慶應義塾高校では、理科系で医学部の進学コースに在籍、「数学が得意で、国語が苦手、国立の歯学部をめざしていた」という。高2の時に読んだ一冊の本が大きな転機となった。政治学者、丸山眞男の『戦中と戦後の間』だった。
 「丸山眞男の著作は『日本の思想』など手当たり次第、読んだ。そして、目を醒めさせられて政治学を志すようになった。早稲田へ行ったわけ?慶應というスクールカラーと対照的な大学へ行きたいと思っていた」
 早大政治経済学部(藤原保信ゼミ)に進む。藤原ゼミの出身者には、東大大学院教授、姜尚中、作家の森まゆみらがいる。「早大では、反動で地方出身の学生と親しくなり付き合った。姫路に住む学友の自宅に行ったとき、天皇皇后の御真影が飾ってあるのに驚いた」
 同大卒業後、大学院には進まずに国立国会図書館に就職。「毎日が閲覧カードづくりで嫌になって、1年間勤めて辞めました」。日経新聞に転身した理由を聞いた。
日経で宮内庁記者
 「公務員はウンザリしたので、マスコミになった。日経を選んだのは、地方勤務がない、東京に残る確率が高いから」だという。日経では、社会部に配属され、宮内庁担当になった。
 「ちょうど昭和天皇の晩年にあたったため、激務に追われ体を壊してしまい、1年ちょっとで辞めた。2、3年勤めたような気がする。拘束時間が長く、持たされたポケベルが精神的にきつかった」
 第2の転機が訪れる。「宮内庁詰めになったことで、天皇に関心を持つようになった。大学院で勉強しようという気持ちになった。早大には日本政治思想史の講座がなかったので、東大の大学院に行った」
 東大大学院博士課程に進学して1年後に社会科学研究所の助手に。社研には4年間勤め、朝鮮と日本の王権の比較研究を行った。それを論文に書いて『直訴と王権』という最初の本を出版。「全然売れませんでした」
 しかし、その後の執筆活動は華々しい。原 武史の名を高めた『大正天皇』(朝日選書、00年)は01年、第55回毎日出版文化賞、前述の『滝山コミューン1974』は08年、第30回講談社ノンフィクション賞、同年には『昭和天皇』で第12回司馬遼太郎賞を受賞した。
 教員生活は、97年、山梨学院大学法学部助教授が最初で、00年から明治学院大学に。政治思想史が専門で、自ら「空間政治学」と呼ぶ政治学を教える。
「空間政治学」を講義
 「これまでの政治学は丸山眞男、吉野作造や福澤諭吉ら碩学の著作集を読んで論議してきた。つまり、思想は個人の言説の中に集約されているとしてきた。ぼくは、思想は空間の中にもあると思っている」
 菅首相の不信任案否決にさいし、朝日新聞(6月3日)にコメント。「政党政治が機能しないのは、昭和初期と似ている。この時もきっかけは東北だった。震災からの復興には、国全体で論じる気概が有権者にも必要だ」
 授業はどうですか?「国際学部のゼミは、10人程度の少人数で、研究テーマを出し、それについてゼミ生全員で調査研究し論議します。校外学習を多くして、なるべく学生を外に連れ出すようにしている」
 どういう場所へ?「研究テーマに関連する皇居、天皇陵、御用邸、昭和天皇記念館、長野・松代の大本営跡といった場所から、ハンセン病施設や3億円事件ゆかりの小金井本町団地などを見て回った」。楽しそうに、たくさんの場所をあげた。
 今の学生について?「ぼくは大学2、3年のときは、生涯で一番多く本を読んだ気がする。新聞をとってない学生がほとんどで、本は、焚き付けないと読まない。もっと、他学部や他の大学の学生や社会人と話をしろ、と言っている」
 鉄道との出会い。「鉄道好きの父親の影響が大きい。小さいときから、父親に連れられ、あちこちの電車に乗った。小学校に入る前に東京から鹿児島、稚内までの全ての駅名がソラで言えた」。雑誌『本』の96年1月号からエッセイ『鉄道ひとつばなし』を連載中。
 「鉄道にも興味があるが、車両そのものが好きだというわけではない。鉄道を媒介として、思想や歴史を語る方が好きなんです。鉄道は思想や歴史を読み解いていくのに重要な媒体と言える」。さっきの「空間政治学」と重なるところだ。
 東日本大震災で打撃を受けた東北の鉄道網について、原さんは朝日新聞のオピニオン面(4月19日)で「新幹線優先の復旧でいいのか。記憶と深く結びつくローカル線をまず走らせて日常を回復せよ」と提言した。
 被害を受けたローカル線のひとつ、三陸鉄道は、国や周辺自治体の支援を求めている。原さんは、同鉄道の切符1000枚(60万円)を購入。60万円を寄付した計算。「1000枚という数は現時点での最多記録です」(同鉄道)
少子化・全入で厳しい大学問題を聞いた。「3年前から、作家らを招き公開セミナーを毎秋、開いている。聴衆は学生より60歳から70歳代の市民のほうが多い。大学は18歳から22歳と限定している限り、減っていくパイの奪い合いになる。年齢の枠を撤廃して、誰もが入学できるようにしたらいいと思う」
 こう付け加えた。「教員の質を高める必要がある。改革、改革で時間を費やし、会議、会議で研究時間が確保できない。教授を役割分担させ、教えるだけでいい特任教授を増やすのも一案だ」
ゼミ旅行は三陸へ
 9月のゼミ旅行は、三陸へ行くという。「三陸鉄道の人の案内で被災した町や鉄道を見て回る。学生は、被災の現地を実際に見ることで、大震災から何かを学びとって欲しい」。フィールドワークの授業が好き、鉄道が、学生が好きな原さん。ギョロとした大きな目を輝かせた。

はら たけし
 1962年、東京都渋谷区に生れる。政治学者で、専攻は日本政治思想史。早稲田大学政経学部卒業後、国立国会図書館、日本経済新聞社勤務を経て、92年、東京大学大学院博士課程中退。東京大学社会科学研究所助手、山梨学院大学助教授を経て、2004年から明治学院大学教授。08年から明治学院大学国際学部付属研究所長。『「民都」大阪対「帝都」東京―思想としての関西私鉄』(講談社選書メチエ、98年)、『昭和天皇』(岩波新書、08年)、『松本清張の「遺言」―『神々の乱心』を読み解く』(文春新書、09年)など著書多数。


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