平成23年3月 第2436号(3月23日)
■大震災に提言
能動的支援に乗り出せ 試される大学人の指導力
大学や大学人は今、何ができるのか
未曽有の被害を起こし続けている東北関東大震災。この非常事態に向けて大学だからこそできる社会への貢献とは何か。アメリカから見た復興への大学のあり方について、飯吉 透マサチューセッツ工科大学シニアストラテジスト・北陸先端科学技術大学院大学客員教授に特別寄稿を頂いた。
アメリカで遭遇した日本の3・11
ボストン郊外に住む私や私の家族が東北関東大震災について知ったのは、地震発生から4時間ほどが過ぎた米国東部時間の早朝だった。インターネットでこのニュースを知った私は、寝間着のまま居間のある二階に駆け上がり、ケーブルテレビで同時中継されていたNHKの報道を通じて、地震や津波による驚愕すべき被害を目の当たりにした。急いで東京に住む両親に電話をかけようとしたが、回線は一向に繋がらず、それまで非現実的だったショック感覚が、たちまち恐ろしいリアリティーとして自分の中に広がっていった。幸いなことにしばらくしてから電話は通じ、両親の無事が確認できた。
その日から既に一週間以上が経ったが、今も震災で亡くなった方の数は増え続けており、家族や家財を失った多くの方々が避難先で悲しみに暮れながら不自由な生活を余儀なくされている様子に、海外に在住する日本人の一人として、お見舞いの気持ちや心の痛みは留まるところを知らない。
被災された方々や地域に対して、既に多くの個人、自治体、企業や団体・機関などが、人的・物的・経済的な支援の手を差し伸べている。そのような中で、海の向こうから見聞きしている限り、日本の大学や大学人の救援に対する動きは活発であるようには感じられない。日本国内の高等教育関係者の知り合い何人かにも電話やメールなどを通して尋ねてみたが、その人たちもやはり同じように感じていた。
勿論、地震・災害対策・原子力などを専門分野とする大学の研究者たちの中には、解説者やコメンテーターとしてメディアに登場するだけでなく、実際に政府や関連機関などに助言し、実際の救援活動のプランニングや実施の助力となっている人たちも少なくない。また今後、被災地域の復興が進められていく中で、大学や大学人の持つ様々な専門的知見や能力が求められ、役に立てる機会も増えてくることだろう。
これらが大学人による有意義な社会貢献であることに間違いはないが、このような大学人の社会的使命や責任は、平時でも果たされていると言えなくもない。その一方で、今日本が直面しているような国難を全力で乗り切っていくためには、大学や大学人が「受動的に求めに応じる」だけではなく、「教育機関と研究機関」や「教育者と研究者」というそれぞれの側面から、「能動的に支援に乗り出す」ことが大いに望まれるのではないだろうか。さらには、大学生・大学院生や大学の教育研究活動をサポートするスタッフの方々も、直接的・間接的に助力となれる方法を見出せるに違いないし、そのような力が結集されれば、様々な形で復興を加速できるはずである。
大学と大学人で 支援の可能性探る
2005年の夏、米国でハリケーン・カトリーナによってルイジアナ州を中心として多数の大学が被害を受け閉鎖に追い込まれた時、他州の大学は、被災地の学生の受け入れやオンライン教育による受講や単位取得ができるように援助を行った。また、昨年の秋、地震被災によって甚大なダメージを受けたハイチの高等教育システムの復興支援策について話し合うため、私の勤務するマサチューセッツ工科大学(MIT)はシンポジウムを開催し、私は統括責任者として奔走した。ハイチの大学・政府関係者とMITでオープンエデュケーションや教育イノベーションに関わる教員や専門家が参加し、様々な可能性の模索や検討が行われた。
このような前例に想いを巡らせながら、日本で先の3連休が始まる前日、私はツイッターで、日本全国の大学生・大学教職員の方々に向けて、次のようなメッセージを送った。
「この連休中に、今この国難を乗り越えるために、是非大学にしかできないことや大学人の叡智を結集してうまく率先できることを考え、休み中や休み明けに同僚や仲間と話し合ってみてください。また、アイデアなどをツイッターやブログで大いに発信してください」「義援金や現地でのボランティア活動以外にも、できることは幾つもあるはずです。どうすれば被災地の教職員・学生の助けになれるか、考えてみてください。もし今すぐにはできなくても、今後こういう仕組みを作ればいいのでは、というアイデアでも構いません」
この呼びかけに応え連休明けを待たずに、「災害発生時も含め、コミュニティーの要になれるような新しい学校建築のためのフィールドワークを行う」「被災地での復興支援の試みを様々な形で実践研究に繋げる」などの素晴らしい構想をブログやツイッターを通して発信してくれた若い教育研究者の仲間もいた。それに対して私が、「このようなフィールドワークの成果は、日本だけなく途上国や紛争地域にある学校の建築などにも応用できそうだし、関係省庁や企業などから助成や協力を得る道もあるかもしれません。研究者と学生のオープンなプロジェクト学習(ProjectBased Learning)として展開できる可能性もありそうですね」とコメントを返すと、提案してくれた本人だけでなく、他の何人かの研究者からも賛意や意見が寄せられてきた。ツイッターやブログなど、いわゆるソーシャルメディアの威力である。
試練の時を迎えて
以前、日本の大学の先生たちと「停滞・衰退する日本の高等教育の再生は可能か」というテーマについて話し合った時、「例えとしてはよくないが、日本がもう一度焦土と化して、皆が一から這い上がるくらいまでに追い詰められなければ、大学も大学人も本気になれないのでは」というとても悲観的な話になった。そして不幸にして、現在の日本は、そのような情景を彷彿させるような状況にある。果たして日本の大学や大学人はこの国難を機に、日本の高等教育を、そして日本を再生することができるのだろうか?それとも、ただ事の成り行きを静観し佇み続けるだけなのか?
今回の大震災に関するニューヨーク・タイムズへの寄稿で、作家の村上龍氏は、日本の教育や社会の未来をテーマにした自著「希望の国のエクソダス」という小説の中で主人公である中学生が言った「この国にないのは希望だけだ」という言葉を引用しつつ、「だが今、この国にあるのは希望だけだ」と述べた。感動的であるし、私も含め多くの人々の共感を呼ぶ言葉だ。
しかし、希望と期待を混同してはいけない。期待は自らに対して持つものではなく、時として裏切られることもある。しかし、希望は捨てない限り、いつまでも自分たちのものであり続ける。だからこそ、このような困難の最中には、希望を持ち続け、自ら考え行動するしかない。
この大震災による被害からの復興に莫大な国費が投入される見通しであることから、日本の大学関係者の間では、早くも将来の「高等教育関連予算削減の可能性」を憂う囁き声が洩れ始めている。そう遠からぬうちに、 いつものように「高等教育は、重要な社会基盤なのだから、その弱体化は許されない」「強い大学なくして、国際競争を勝ち抜くための教育立国はできない」という声が上がり、大学や大学人の連帯が始まるのだろう。
しかし、大学や大学人が連帯しようとするのが、いつも大学が窮地に追い込まれた時だけなのであれば、先に掲げたようなスローガンは、ただ虚しく世間に響くだけだ。本当に大学や大学人が連帯し、声を上げ然るべき行動を取らなければならないのは、むしろ社会や多くの人々が危機的な状況に陥っている時なのではないか。
世界に誇れる日本、世界に誇れる日本の高等教育の再生を目指し、日本の大学の社会的存在価値と大学人の強いリーダーシップが、まさに今、試されようとしている。