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平成23年1月 第2426号(1月1日)

平城遷都1300年を振り返って 


奈良大学文学部教授 東野治之

 昨年の平城遷都1300年祭は空前の人気を博した。その平城遷都の背景について、今一度振り返り、「なぜ、遷都の必要があったのか」など、その史実の裏側を奈良大学の東野先生に語っていただいた。

平城遷都の背景を探る
 昨年は和銅三年(710年)に行われた平城京への遷都から1300年に当たり、国の特別史跡に指定されている平城宮跡を中心に、遷都祭が催された。前年の秋には、大修理のため長らく見ることができなかった唐招提寺の金堂が落慶、天平の雄姿を現し、年明けには平城宮跡に遷都当初の大極殿が復原されるなど、話題に事欠かなかったこともあって、大変な賑わいだったことはご存知の方も多いだろう。10年に及んだ唐招提寺金堂の修理に、専門委員の一人として加わった私には、出来上がって初めてとなった鑑真忌(6月6日)で講演の機会を与えられたのが特に印象深かったし、NHK大阪のドラマ「大仏開眼」の歴史考証を担当して、まだ公開前の復原大極殿で、ロケに立ち会ったのも忘れられない。
 遷都祭があれほど人気を呼んだのは、近ごろよく話題になる知識の大衆化、情報化とも無関係ではないように思う。リタイヤした歴史好きの人々に限らず、古代への興味や知識は大変なものだが、今は失われた古代の建物などは、よく学んだ人でなければ往時の姿を思い浮かべることはむずかしい。しかし建物が復原されれば、どんな人にも一挙にそれが身近になる。復原の根拠は実は乏しいのだが、わかりやすさが人をひきつけ、さらに情報化が宣伝効果を高めた。それがなかったら、あれほどの人出にはならなかったにちがいない。
 一方、私の在職する奈良大学では、歴史や文化財に関する教育と研究で全国的に有名なこともあって、この遷都祭に合わせシンポジウムを開催するなど、地域との連携に取り組んだ。そのシンポジウムのひとつでも話したことだが、平城遷都そのものは有名な出来事でも、遷都の理由や背景については、正面切って内情を書いた史料が残っていないため、さまざまな解釈が提出されていて、定説と言えるものがない。遷都の詔勅に見える風水の思想を重視する考え方や、当時編纂された大宝律令の完成に結びつける見方もある。しかし私は、遷都にはもっと直接の原因があったと思っている。この機会にその持論を紹介する。

天武天皇と藤原宮
 そもそも平城京が都になる前、国の中心は主に奈良盆地南部の飛鳥地方にあった。そのころはまだ永久的な都という観念がなく、天皇の代替わりごとに、新しい天皇の住まいである宮が営まれる仕来りだったが、7世紀の末になって藤原宮が造営されると、事情が変ってくる。藤原宮は、壬申の乱という内戦を勝ち抜いて即位した天武天皇が、飛鳥地域の北に構想した新しい都だった。その都市計画は683年ごろには固まっていて、基礎工事が開始されていた。ただ、完成して遷都が行われたのは、天武天皇が没してそのあとを継いだ持統天皇(天武天皇の皇后)の8年(694年)のことである。平城遷都はそれからわずか十数年後のことだから、平城京を考えるには、どうしても藤原宮との関係が問題になる。
 藤原宮がそれまでの都と決定的に違うのは、第一に中心部が瓦葺の建物になったこと、第二に宮の周りに市街地である京が設けられたことである。第一の点は、この宮が中国風の恒久的なものと考えられていたことを示している。第二の点も、中国的な都城がモデルであったことを表すといえるだろう。藤原宮に先立ち、大化改新のあと造営された難波宮にも京が計画された痕跡はあるが、どこまで実現したかはわからない。それに対し、藤原京では、はっきりと道路の跡が残っていて、東西10坊、南北10条に及ぶ碁盤の目状の市街地が計画された。どうしてその恒久的な都城が、短期間で放棄されなければならなかったのか。
 その答えは、藤原京の立地にある。藤原宮の跡は現在も橿原市に保存されているが、そこに立って南の正面方向を望むと、地形がだらだら上りに高くなり、飛鳥地域を越えて、南の山並みに続いていくことがわかるはずである。古代の宮はこれ以前から、南を正面にして営まれるようになっていたが、これでは藤原京が完成したとしても、京の正門(平城京の朱雀門に相当)を設けることもできない。これは中国的な都城としては、致命的な欠陥だった。中国では君主は徳の高い聖人になぞらえられ、南を向いて統治するのが理想とされていたからである。藤原京造営のときから、それはわかっていたはずだが、飛鳥の北に大和三山を取り込んで作るとなると、こうならざるをえない。藤原京は、京の中心に宮を置く特殊な都市プランを採用していて、これは中国の古典に則ったものだったが、それも、藤原京が持つ欠点をカモフラージュするためだったのだろう。
 しかし大宝律令を完成し、これから本格的に中国風の国家を目指すとなれば、これでは不都合である。藤原京では、外国使節を迎えるにも北からとなってしまう。これを解消するには、大和盆地の北端に都を造るのが一番だった。こうして実現したのが、平城京遷都だったというのが私の考えである。

◆筆者プロフィール
1946年 兵庫県生まれ
1969年 大阪市立大学文学部卒業
1971年 同大学大学院修士課程修了
      奈良国立文化財研究所文部技官、大阪大学文学部教授などを歴任
1999年 奈良大学教授就任
 その他、1988年「第1回浜田青陵賞」受賞、2005年「第17回角川源義賞」受賞、2008年「第62回毎日出版文化賞」受賞、2010年「紫緩褒章」受賞、学士院会員に選ばれる。

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