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教育学術オンライン

平成22年10月 第2417号(10月6日)

高等教育の明日 われら大学人 〈5〉
 ノーベル賞受賞後も教育・研究に多忙な日々
 益川敏英さん(70)
  若者よ、科学にロマン持て
  京都と名古屋往復の日々 好きなクラシックもお預け

 大学人として、これほど脚光を浴びた人物は、この人を措いて前にも後にもいまい。今年も日本人2名がノーベル賞を受賞。ノーベル賞の受賞自体、言葉で言い尽くせないくらいの栄誉だが、当時の受賞インタビューでの受け答えも日本中の話題をさらった。いわく、「(受賞は)大してうれしくない」、「36年前の過去の仕事ですから」、「研究者仲間が理論を実験し、あれで正解だったよ、と言ってくれるのが一番うれしい」、「我々は科学をやっているのであってノーベル賞を目標にやってきたのではない」…。受賞から約2年経ったいま、益川さんは教育と研究で京都産業大学と名古屋大学を往ったり来たりの多忙な日々を送る。そんな益川さんを訪ね、これまでの人生、受賞のことなどを改めて尋ねた。取材を通じての人間・益川像。テレビなどで受けた印象はほんの一断面に過ぎなかった。

 1940年に愛知県名古屋市中川区に生まれ、戦後は昭和区、西区で少年期を過ごした。どんな子どもだったのか、少年時代のことを聞いた。
 「親父は戦前、家具製造業を営んでいましたが、戦争で全てを無に帰しました。戦後は砂糖を商っていました。若い頃に勉強した電気の知識を自慢したかったらしいのですが、話し相手がいません。私がターゲットにされました」
 銭湯の行き帰りがそうだった。「親父は『どうして三相交流モーターが回るのか』、『日食や月食が毎月起こらないのはなぜか』といった話をしてくれました。息子の教育ではなく、自分の自慢話」
 「私は学校の成績は良くなかった」とご本人。ほんとうですか?「先生が教科書通りでない話題に脱線したときなどは、それをフォローして質問に答えられる、おかしな少年でした。両親が子どもの勉強を手伝ってくれるという家庭ではなかった」
 1955年、名古屋市立向陽高校に入学。「高校進学率が50%の時代、友達が高校に行くから自分も」といった気持ちで高校に進学した。物理学者になりたいと強く思うようになった契機は、高校進学後のこと。
 「高校1年のときでした。地元の名古屋大学の坂田昌一教授が『陽子、中性子、ラムダ粒子を基本構成子に選んだ画期的な複合粒子模型を発表した』と新聞に出ました。私の住む名古屋で今、科学が作られている、ならば私もそれに加わりたい、と思いました」
 58年、名古屋大学理学部に入学。父親と一悶着あったという。「親父は『砂糖屋に学問はいらん』の一点張り。夕食のとき親父と喧嘩、おふくろが中に入って、一回だけ名古屋大の受験を許されました」
 入試は800点満点だった。「苦手な英語は捨てて数学と理科で90%取れば合格できると、日本史・世界史は3年の12月後半から1日16時間やった。勉強でなく暗記だった。合格のあと成績を聞いたら、英語は200点満点で50点なかった。英語は俺に向いていないと思ったが、いま考えれば、やっておくべきだった」
 大学での授業は高校までとは大いに違い、大変刺激だった。よき友人に出会った。「数学や物理が好きなのが4、5人集まって毎日、議論した。乱暴な議論をして『お前とは口を聞かん』なんていうのはしょっちゅう。みんな『俺は研究者になる』と教職課程を取らず退路を断ち切って学んだ」
 終生の師とも出会う。62年、大学院に入り、坂田昌一研究室で学ぶ。「先生は忙しくて研究室にはあまり来なかった。来たときは、“屁理屈の坂田”の本領発揮で鼎談になった。憧れていた先生なので耳をそばだてて聞いた。若い学者を育てる、という研究室経営が優れていた先生だった」
 大学院でも“へそ曲がり”は治らず、一時期、脳の研究が重要であると数人の仲間でパーセプトロンの勉強を行っていた。しかし、最終的には坂田研究室で理学博士号を取得。博士論文のタイトルは「粒子と共鳴準位の混合効果について」。
 73年、京都大学理学部助手のとき、坂田研究室の後輩の小林 誠さんとウィーク・ボゾンとクォークの弱い相互作用でCP対称性の破れを説明。この「小林・益川理論」による物理学への貢献でノーベル物理学賞を受賞した。
 冒頭に紹介したように、08年12月7日のスウェーデン王立科学アカデミーの会見での発言は型破りだった。「(受賞は)大してうれしくない」といったのは、どうしてですか?
 「受賞の知らせが届いたとき、女性の日本語通訳は『このことは10分後にプレスに発表します』と言った。フィールズ賞などでも受賞を断る人も出るが、そういうことは予想していない。(ノーベル賞は)そんなに偉いのか、とむすっとした(ので、ああした発言になった)」
 「まあ、質問されたとき、だいたい答えはわかるもの。うれしい、と、その通り答えるのもねえ、ぼくは、もともとへそ曲がりだから」。
 「(ノーベル賞は)世俗的な物」という発言に象徴的だが、益川さんは、研究者にとって純粋な学問の追求こそが目的で、賞を獲得することが目的ではない、と言いたかったのではないか。
 教育問題に対する発言も注目を集めた。受賞後に文部科学大臣に面会した際の発言。「大学受験などでは難しい問題は避け、易しいものを選ぶよう指導している。これは考えない人間を作る『教育汚染』。親も『教育熱心』でなく『教育結果熱心』である」
 改めて真意を聞いた。「今の子どもは、遭遇したことのない問題はスキップしなさい、時間の無駄だと教わっている。答えを出す際も、なぜこうなるのかを考えない、考えない子どもをつくっている」
 どうすればいいのでしょうか?「子どもも先生も過重な負担を負っている。試験問題づくりでもミスが有ってはいけないと昔の10倍以上のエネルギーを使っている。人生には不慮の事故もあるんだし、複雑になりすぎている受験システムをシンプルにし、仕事量を減らすことだと思う」
 科学教育や科学政策にも苦言を呈した。日本人ノーベル賞受賞者の増加について「だからといって、現在の日本の科学の現状が万万歳ということにはならない」。
 「日本の基礎科学への研究費配分は不十分、このままでは大学の基礎科学が危なくなる」と警鐘を鳴らした。
 こちらも改めて聞いた。「科学にロマンを持つことが重要。あこがれを持っていれば勉強しやすいが、受験勉強で、それが弱くなっている」。若い人が物理学に興味を持つには?「我々の仕事が多少なりとも役に立てば光栄なことです」
 趣味を聞くと、「自分でアンプやスピーカーなどを買い揃え、同軸ケーブルを自宅に張り巡らして聞くクラシック音楽の鑑賞」と意外な答え。「モーツァルトは嫌いでバッハ、ベートーベン、バルトークらが好き」だそうだ。
 現在、4月にスタートした京都産業大学の益川塾。益川さんの名前を冠して自然科学、人文科学の両分野で12人の若手研究者が刺激しあって研究に取組んでいる。この益川塾は「順調に動いている」という。
 週3日は母校の名古屋大学に通う。「琵琶湖の近くにバラック小屋を建てた。冬は雪が一、二メートル積もる。ここで、薪ストーブを炊いて、クラシックを聞くのが楽しみ」。目下、「その時間が取れなくて…」と残念がった。その苦笑いした顔はノーベル賞受賞の際に時折みせた笑顔と重なった。

  ますかわ・としひで  1940年2月、名古屋市生れ、70歳。理論物理学者。専門は素粒子理論。67年、名古屋大学大学院修了、名古屋大学理学部助手、京都大学理学部助手、東京大学原子核研究所助教授を経て80年、京都大学教授、97年、同大基礎物理学研究所所長、03年、京都産業大学理学部教授。08年、ノーベル物理学賞を受賞。現在、京都産業大学益川塾塾頭、名古屋大学特別教授・素粒子宇宙起源研究機構長。


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