平成22年1月 第2387号(1月20日)
■伊能地図復元
全国巡回展
小百科
江戸・深川
伊能忠敬は、上総・下総国(現在の千葉県)の出身だが、江戸とのつながりも長くて深いものがある。下町の深川界隈との因縁が深く、上野にも忠敬の墓地がある。
忠敬は1945年(延享二年)、上総国山辺郡小関村に生まれた。18歳のとき、下総国佐原村の伊能家に婿養子に。伊能家は造り酒屋なども営んでいたが、商売は傾きかけていた。忠敬は米穀売買にも手を染め、江戸・深川に薪炭問屋を出すなど家業を拡大した。
50歳で隠居して江戸に出て、幕府天文方高橋至時に暦学・天文を学んだ。至時の弟子になってからは寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)と仇名で呼ばれていた。
56歳から測量をはじめ、72歳まで16年間かけて日本初の実測による「大日本沿海輿地全図」を完成させた。仕上げ作業を担当したのは至時の子、高橋景保だ。
江戸では、忠敬は深川黒江町(現・門前仲町一丁目)に住んだ。かつて、ここで商売した土地勘があったからかもしれない。前後10回の測量旅行出発にあたっては必ず富岡八幡宮を参拝した。2001年、伊能忠敬の銅像が富岡八幡宮に建立され除幕式があった。
忠敬は、遺言に、こう残している。〈私が大事を成し遂げられたのは、至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい〉。その願いは届き、上野にある源空寺の墓地に葬られた。
源空寺には、景保・至時・忠敬の大日本沿海輿地全図に携わった三人の墓が並ぶ。忠敬の墓石の側面には、こんな文面が彫られている。〈忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った〉