平成21年11月 第2382号(11月25日)
■伊能地図復元全国巡回展小百科
蝦夷地
伊能忠敬は、200年前に正確無比な日本地図を作成。このための測量調査は、当時、忠敬が住んだ江戸から最も遠い蝦夷地から始めた。なぜなのか。
50歳を迎えた忠敬は、家業を長男に譲り、小さい頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強するため江戸へ出る。
天文方暦局で、忠敬は、当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生に。当初、至時は忠敬の入門を「年寄りの道楽」と思っていたそうだ。
「いったい地球の直径はどれくらいあるのか?」。暦局の人々の最大の関心事だった。オランダの書物から「地球が丸い」ということは知っていたが、大きさが分からなかった。
そこで忠敬は考えた。「北極星の高さを二つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かる。二地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」。
師弟は、こう考えをふくらませた。「この二つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる」。そこで、「江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか」という結論になった。
当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要だった。至時が考えた名目は「地図を作る」。外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いた。師は、なかなかの策士だった。
幕府は、蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量する許可を与えた。忠敬、55歳のとき、江戸を出発。三年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻った。
さっそく、地球の大きさの計算に取り組んだ。忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と1000分の1の誤差しかない正確無比なものだった。
その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等で無理を重ねたため病に倒れた。翌年、39歳の若さで帰らぬ人となった。師を失った忠敬はただただ慟哭した。