平成21年7月 第2367号(7月15日)
■教育工学とFD <2>
教育工学からみた大学授業改善
カリフォルニア大で学んだ5つの視点― 下 ―
私が授業改善やFDに取り組むようになったきっかけは、在外研究で滞在したカリフォルニア大学で、学生になって授業に参加したことであった。そこで色々なことを学んだ。
一つは、生涯学習の視点である。私のゼミに参加した大学院生の一人は、夫婦で学生生活を送っていて、本人はコンピュータ科学部、奥さんは医学部に所属し、かつ中学生の子供がいた。さぞ、忙しい毎日であったろうと推測できた。どうしても子供のことで、仕事のことで、授業を休まざるを得ないこともあっただろう。いつでもどこでも教材にアクセスできたら、授業の光景を見ることができたらという期待があったであろう。
カリフォルニア大学では、教材はインターネットで入手でき、映像はビデオになっており、映像センターで見ることができるという仕組みを、1993年に実現していた。それは、教育工学らしい発想であったが、マーチン・トロウも述べているように、生涯学習における大学は、通信技術を活用することが必須になるであろう。旧メディア教育開発センター(現放送大学)の小野 博は、リメディアル教育に遠隔教育システムを適用して成果をあげている。いつでもどこでも、復習や補習ができる仕組みが、必要なのである。
二つは、授業評価システムの活用の視点である。16年前に、すでにマークシートを用いた学生による授業評価を実施しており、すべての教員の記録簿として保管されていた。数値として記録されることは、日本の大学では、まだなじまないことがある。それは、多分、心情的な面での抵抗感であろう。すべてが測定できる、数値化できるとは言えないが、何らかの指標がないと、授業改善はできない。教育工学では、教育活動を、測定し、データとして記録し、指標化するという方法を用いることが多い。確かに、指標化することで、比較できる、改善しなければならないことが、意識化できる。
しかし、それだけではなかった。人事にこの評価結果が反映されるシステムであった。教授昇進の資料として、教員採用条件として、授業評価は重い指標になっている。しかも、人事委員会の構成メンバーを聞いて、驚いた。教員の他に、大学院生も入っていたからである。現在でも継続しているかどうか知らないが、授業評価を重要視していることは言うまでもない。また同時に、受益者である大学院生の存在も考慮していたのである。
三つは、いかに授業改善を行うかという視点である。この大切さは私も実感している。授業評価は日本でも日常的であるが、「いかに改善するか」という視点が弱いと思われる。ある教員は、「私の授業評価の数値は低く、毎学期、毎年、評価結果が届く毎に、ゆううつになる。自分では、それなりに努力しているが、学部でトップからビリまで、学内の教員に公表されるのは仕方がないが、それよりも、どうやって改善していいかわからないので、どうしようもない」と嘆いた。その通りである。どうしていいかわからないが、評価結果だけは公表して、大学の責任は果たしたと考えるのは、事の本質をとらえていない。だが現実は、担当者も教員も忙しすぎて、そこまで丁寧に対応できないということが本音であろう。カリフォルニア州のいくつかの大学を訪問してわかったことは、専門のセンターがあって、授業スキルの指導やアドバイスを行っているということであった。
例えば、教員がそのセンターに相談すると、担当スタッフがビデオを持って、その教員の授業風景を録画し、後日教員がセンターを訪問して、ビデオを再生しながら、授業スキルについてもコメントをもらうと言う。それは、患者が専門家である医師に相談する光景に似ている。授業改善でも同じではないだろうか。
教育工学は、教育の問題解決を目指す研究であり、教育の実践に役立つことを念頭においている。その意味では、全国の大学に設置している教育センターなどは、そのような授業改善やアドバイスの機能を、もっと持たせてもいいのではないだろうか。
四つは、典型的な授業方法を記述したテキストの標準化の視点である。カリフォルニア大学では、シラバスの書き方、学生評価の仕方、授業形態の選択の仕方、テストの作成法など、いわゆるハウツー的な単行本が、教員向け、TA向け、学生向けに配布されるので、標準の授業スタイルはできている。これらの書籍はよく知られていて、日本でも翻訳されて出版されているようだが、あまり効果的だったという声は聞かない。授業方法の教科書的なテキストを、日本の大学では好まない風潮があるからかもしれない。
しかし、授業方法にも、ある意味での標準化が必要ではないだろうか。私自身が、この授業スタイルでいいのだろうか、どうも学生が興味無さそうな目つきで聞いているが、他の講義でも同じだろうか、とよく思うので、たぶんどの教員も同じ気持ちであろう。学期末の授業評価結果を見て、どのレベルだったかを知ることはできるが、標準的な授業スタイルが何かについての知識はないし、テキストも読んだことがないから、結果だけ知らされて後は自分で工夫しろと、言われていることと同じである。
例えば、教育工学は、このような教育方法や授業改善の研究の分野なので、研究として行ってもよいし、文科省の関係機関が補助金を出して、大学授業に関する標準テキストを作成してもいい。標準化を恐れてはいけないし、時代はそのような方向に向いている。学士力、社会人基礎力、大人のPISAと言われるPIAACの国際学力比較などを考えれば、初等中等教育だけでなく、高等教育や生涯教育において、学力の標準化が進んでいるので、教育内容の標準化と同時に、教育方法の標準化も考えていい時期ではないだろうか。
五つは、授業実践の共有化の視点である。カリフォルニア大学に限らず、日本の大学教員も、きわめて優れた授業実践をしている。それが共有化されていないだけである。前号にも書いたが、私は科研費の助成を受けて、大学授業改善データベースを作りWebで公開したが、大学異動のため、削除してしまった。残念であるが、これから、多くの実践を共有できる場を作りたいと思っている。
例えば、そのデータベースに記載された、岩手大学の大河原清は、最初の授業のオリエンテーションで、学生たちに握手をさせると言う。確かに、今日ではコミュニケーションが苦手な学生が多い。何も言わなくても、握手するだけで、気持ちが通じあうと予想されるので、優れた実践であろう。
また、明治薬科大学の小松楠緒子は、社会学が専門であるが、彼女の講義は、すごい。一度実際に参加したが、学生たちを感動の渦に包みこみ、しばらく内容が脳裏から離れなかった。その秘密は、彼女の所有している膨大でしかも秘蔵のビデオを活用する方法にあった。学生たちを引き込む方法や語彙の豊富さには、どこか名人芸のような技があったが、きわめて印象深い授業であることは、間違いない。
全国の大学の多くの教員が、日々授業で格闘し、ある時は、学生たちの私語や居眠りに意気消沈すると同時に、教師という存在は何だろうかと悩み、ある時は、予想以上に多くの質問が出て、教師としての充実感と嬉しさを感じて、教室のドアを閉めたこともあるだろう。私は、失敗も成功も含めて、それらの実践を共有したいと思う。何故なら、誰も手探り状態で、授業改善に取り組んでいるからである。