Home日本私立大学協会私学高等教育研究所教育学術新聞加盟大学専用サイト
教育学術オンライン

平成21年4月 第2354号(4月1日)

学士課程教育構築の方法論になるか
  PSI―個別化教授システム
  インストラクショナル・デザインの原型

早稲田大学人間科学学術院准教授 向後千春

 ■一斉授業の崩壊
 何十人かの学習者を一つの教室に集めて行う一斉授業では、必ず離脱者が出る。加えて、すでに学習内容を理解している人は、他の人の理解を待って、退屈な時間を過ごすことになる。つまり、個人差のある学習者を同じ場所に集めて、同じ学習内容を学ばせようとすること自体に、必然的な無理がある。たとえ最初に、同じような理解度レベルの学習者だけを集めてきたとしても、各個人の理解の速度が異なれば、やはり同じペースで学ばせるのは無理な仕事になってしまう。
 そう考えると、現在、小学校から大学まで、同じように教室に学習者を集めて授業をしているのは、悪い夢だとしか思えない。実際、教室の中では、学級崩壊から私語の氾濫までさまざまな問題が起こっている。はたして一斉授業の形態は絶対なのだろうか。
 そうではない。一斉授業の対極にある考え方が、「個別化教授システム(PSI)」と呼ばれる教授方法である。
 ■PSIの考え方
 PSIは、1960年代にアメリカのフレッド・ケラーによって考案された授業の方法である。当時のアメリカの大学で広く取り入れられた。
 その特徴は、第一に、周到に作られた独習教材を使って、各学習者個人が自分の学習ペースで単元の学習を進めていくということだ。
 第二に、各単元の内容を完全に習得したことをプロクター(学習指導員)がテストをすることで確認し、コースを進めていくということだ。
 そうすると、教員の仕事は何になるのだろうか。教壇に立って講義をしなくていいのか。その通り、PSIでは教員は教室で講義をする必要はない。教えたい内容はすべて印刷された独習教材として学習者に配布されているので、学習者は講義を聴くのではなく、各自が自分の最適なペースで教材を学習していくのである。教員の仕事は、講義をすることではなく、学習者のための独習教材を作成するということである。さらに、各単元の完全習得を確認するための確認テストを作ることも教員の仕事になる。
 独習教材だけでは理解が進まないときや質問があるときは、プロクターがその学習者に個別に対応する。プロクターは、大学院生がなることもあるし、また、すでにその科目を優秀な成績で履修し終えた学生がなることもある。もちろん教員がプロクターの一員として働いてもよい。
 「個別化」というキーワードから、PSIは非人間的で冷たい授業形式という印象を与えるかもしれない。しかし、実際にそれを教室で運営してみるとわかるように、学習者同士の教え合いは自然発生的に起こるし、学習者とプロクターの個別相談は常に和やかなものになる。少なくとも、何をやっていいかわからずにオロオロしている学習者はいない。教員が教壇を去ることによって、これほど着実でなごやかな学習活動が出現することに多くの人は驚くことだろう。
 PSIを成功させるにはいくつかのポイントがある。以下に見ていこう。
 ■独習を可能にする
 学習者一人ひとりが独習できるようにするために、テキストをわかりやすいものにすることが必須である。これがPSIの最大のハードルであり、同時に成功のポイントでもある。わかりやすい独習教材を作るためには、インストラクショナル・デザインの考え方が援用できる。その入門としては、鈴木克明著『教材設計マニュアル』(北大路書房)から入ると良い。
 自己ペースによる独習なので他人のペースを気にしなくて良い。このようなシステムの中でこそ、人はのびのびと勉強できる。PSIは個別であるから、必ずしも学習者全員が教室に集まる必要はない。しかし、同じ教室でおこなう場合は、むしろ一緒にいる人の役割が大きいことに気づく。こうした環境では、学習者同士が教え合うということが自然に起こる。教員もプロクターもそうした雰囲気を作り出すことに注意を払う。教える人も教えられる人も、そうした活動そのものが自分の理解を深めるのに役立つということがわかる。
 自己ペースで行うことの最大の欠点は「先延ばし症候群」である。人間であれば誰でもちょっと面倒なことは締切ぎりぎりまで手をつけたくない。これが積もり積もってドロップアウトしてしまうリスクがある。これを避けるためには、学習者のペースを常にフォローして、もしドロップしそうなときには前もってケアしていくことが必要になる。
 ■完全習得を保証する
 一斉授業の最大の欠点は、その時間内では完全に理解できない学習者が必ず存在することである。PSIでは、完全習得学習を確認するために通過テストを各単元ごとに置く。成績をつけるためのものではなく、学習者の習得度を測るためのものである。そのため満点、あるいは、満点に近い基準点を取るまで何回でも受けられるテストになっている。学習者は満点を取るまで、通過テストに挑戦し、そのことによってその単元の内容の完全習得をする。これは次の単元に進んだときのつまずきのリスクを最小限にし、コースからのドロップアウトをなくす。
 このような通過テストは、私たちのテストについての既存概念を壊すものだ。しかし、テストとは本来このように、学習者の理解を促進するために利用されるものであるべきなのである。テストに挑戦して、できなかったところがあるからこそ、それをきっかけとした深い学習が促進される。テストをただ成績や序列をつけるためだけのものと捉えてしまうと、学習の促進とは無縁のものになってしまう。
 ■学士課程教育への適用
 最後に、PSIの学士課程教育への適用について述べたい。
 アメリカの大学で広くPSIが実践されて、検証されたことは、良くできた独習教材とプロクターを配置した個別学習には高い教育効果があるということだった。しかし、PSIそのものは1980年代以降次第に姿を消した。それは、独習教材を作るための手間がかかることや、PSI方式の授業では「優」を取る学生が(皮肉にも)多くなりすぎるということが原因であった。
 しかし、PSIは死に絶えたわけではない。それどころか、大学という場できちんと習得すべきことが定義され、その検証が必須となった現代の学士課程教育にこそ、再検討すべき教育方法であるといえよう。競争としての勉強ではなく、知識とスキルを自らの身につけるための学習方法としてPSIは最適のものだからだ。
 さらにいえば、PSI方式は、現在広まりつつあるeラーニングとも親和性が高い。ケラーの時代は独習教材は印刷物であったが、今ならeラーニング教材として各個人のパソコンに配信されるものになるだろう。eラーニング教材であれば、印刷教材では不可能な学習者とのインタラクションも可能になり、より理解しやすいものになるだろう。配信される教材のスケールメリットが出てくれば、より良い教材の開発に投資することも可能である。

Page Top