平成21年1月 第2343号(1月1日)
■源氏物語〜人間の真実と歴史の在り方〜
「源氏物語」のヒロイン「紫の上」に関する初見の記事が確認されてから、昨年が約一〇〇〇年に当たるらしいとのことから千年紀として祝われた。また、十二月には注釈書(辞書)として江戸時代に流通した「源語梯(げんごてい)」の版木が発見され話題となった。明治・大正にかけて活版印刷になるまで、このような版木による印刷が行われていた。そこで改めて「源氏物語」が歴史の中でどのように親しまれ、読まれてきたのか、その誕生、内容等について高千穂大学の渋谷栄一教授にまとめていただいた。
はじめに―源氏物語千年紀
平成二十年(西暦二〇〇八年)は『源氏物語』が作られて千年に当る年ということで、「源氏物語千年紀」と称して全国各地で催しが行われた。十一月一日には天皇皇后両陛下をお迎えして国立京都国際会館で記念式典が催され、「古典の日」が宣言された。その十一月一日は、ちょうど一〇〇〇年前の藤原道長の土御門第において、一条天皇と中宮彰子の間に生まれた敦成(あつひら)親王の誕生五〇日祝いの宴席で、藤原公任が紫式部に「あなかしこ。このわたりに若紫やさぶらふ」(『紫式部日記』寛弘五年十一月一日条)と呼びかけた日である。「若紫」とは『源氏物語』のヒロインである「紫の上」のこととされ、それが『源氏物語』に関する初見の記事ということで、千年紀として祝われたのである。
一 源氏物語の誕生
中宮彰子は、九月十一日に無事に敦成親王を出産し、十一月一日にその五〇日の祝が催された。そして同月十七日には一条内裏に還御する。中宮彰子はそれに先立って一条天皇への手土産として『源氏物語』を献上すべく御冊子作りを営まれ、中宮の父道長も紙や筆などを援助し、色とりどりの料紙が用意されて当時の能書家にその清書が依頼されたことが『紫式部日記』に書かれている。そうして出来上がった『源氏物語』は、「西本願寺本三十六人集」や「元永本古今和歌集」などのような豪華な美本であったろうと推測される。
ところで、紫式部は日記の中に『源氏物語』に関して、さらにそうして清書を依頼した本の元本が自分の手元に戻ってこなかったことと、もう一つ、自分が里から持ってきて土御門第の部屋に隠し置いていた『源氏物語』を式部が中宮彰子のもとにいた留守中に道長がやってきて、彰子の妹の内侍督妍子に差し上げてしまった、とも書いている。そして「よろしう書きかへたりしはみなひき失ひて、心もとなき名をぞとりはべりけむかし」(『紫式部日記』)という感想を書き付けている。これらの記事を整理すると、その時に『源氏物語』は少なくとも二、三種類存在していたことになる。
第一は「紫式部改稿本源氏物語」。日記に「よろしう書きかへたりしは」とあった本である。当時の能書家に清書を依頼した際の元になった本で、その本は作者の手元に戻らなかった「源氏物語」。第二は「豪華清書本源氏物語」。これが当時の能書家に清書を依頼して、中宮彰子と紫式部で表紙を付けて出来上がった「源氏物語」。中宮彰子から一条天皇に献上された「源氏物語」である。第三は「紫式部草稿本源氏物語」。「よろしう書きかへたりしは」とあった本とは別の紫式部が部屋に隠し置いた本、すなわち草稿本。道長が、内侍督妍子に献上した「源氏物語」である。なお、藤原公任が読んでいた「源氏物語」は、草稿本の「源氏物語」か、それとも改稿本の「源氏物語」か、今ではまったく不明であるが、いずれにせよ、当時、少なくとも二種類以上の「源氏物語」の本文が書写されて貴族の間に流布していたといえよう。
さて、一条天皇はその『源氏物語』を女房に読ませて、それを聴きながら、「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」(『紫式部日記』)と感想をもらした。「日本紀」とは、「日本書紀」以下の六国史をいい、いわゆる官撰の国史という意味である。一条天皇からお褒めの言葉をいただきさぞや有り難く思ったことであろう。だが一方で、それを妬んだ同僚女房からは「日本紀の御局」というあだなが付けられたとも書いている。
ところで、紫式部は「日本紀」という歴史書について、『源氏物語』の中でいわゆる「物語論」と呼ばれる中に、「『日本紀』などは、ただかたそばぞかし。これら(物語)にこそ道々しく詳しきことはあらめ」(「蛍」巻)と書いている。よく知られた有名な一文である。これを現代語訳すれば、「『日本紀』などは、ほんの一面にしか過ぎません。物語にこそ道理にかなった詳細な事柄は書いてあるのでしょう」ということである。中宮彰子から一条天皇への手土産として清書された『源氏物語』はその製作期間の短さなどから、現存の『源氏物語』五四帖全巻ではなく、おそらく一部の巻々であろうと推測されている。それはそれとして、紫式部の物語作者としての自負がうかがえる発言である。
『源氏物語』は長篇物語である。四代の帝、すなわち桐壺帝、その子の朱雀帝、その弟の冷泉帝、朱雀帝の子の今上帝の御代にわたり、主人公光源氏を中心にしてみれば、父桐壺帝と母更衣の時代、そして光源氏自身の生涯、子の夕霧左大臣と薫大将、孫の匂兵部卿宮の時代へと、約七〇余年の物語で、登場人物は総勢約五〇〇人にも上ろうかという作品世界である。原稿用紙四〇〇字詰に換算して、原文で二二〇〇から二三〇〇枚くらいになるという。作家の瀬戸内寂聴訳『源氏物語』は四〇七八枚だそうである。全巻を読破するだけでも大変な作品である。さらにそれを書写するとなれば、さらに大変だ。藤原定家は日記の中に、去年十一月から家中の女、小女たちをして『源氏物語』五四帖を書写し始めて約三ヶ月半かけて書写し終えたことを記している(『明月記』嘉禄元年二月十六日条)。
ところで、一条天皇が紫式部のことを「日本紀をこそ読みたるべけれ」と評したように、『源氏物語』には歴史的事実や歴史上の人物を踏まえたりモデルにしていると思われることが出てくる。南北朝時代の源氏学者である四辻善成は、『源氏物語』は延喜天暦の御代、すなわち醍醐帝その子の朱雀帝、その弟の村上帝に準拠したものだと指摘し、その他人物や物事などに関する多数の準拠を指摘した(『河海抄』)。爾来、作品中の物事の準拠論や人物のモデル論などが論じられ、『源氏物語』という作品は虚構物語でありながらリアリティをもった作品として読まれている。
二 虚構の中の歴史書・源氏物語
しかし、『源氏物語』のリアリティは、ただ過去の物事や人物の準拠・モデルにあるだけではなく、さらに普遍的な人間性の問題を正面に据えて、今同時代の貴族社会に起こっている出来事や人間性の姿を暗示させながら、読者の心中に奥深く訴えている点にあるのだ。
例えば、貴族社会の秩序と愛情という問題である。『源氏物語』巻頭の「桐壺」巻に桐壺更衣が登場する。彼女は更衣という身分でしかも故按察使大納言の娘、はかばかしい後見人のいない女性である。しかし後宮には先に入内し第一親王を産んでいる右大臣の娘である弘徽殿女御がいる。帝は弘徽殿女御よりも桐壺更衣を寵愛する。そして更衣には光源氏が誕生する、がしかし、後宮社会の秩序と愛情の序列を乱したところに悲劇が生じ、更衣は横死する。『源氏物語』の読者は誰しも桐壺更衣に同情しよう。秋山 虔氏は「作者は、人間の愛情の問題が、権勢支配の前で、身分秩序の前で、いかにもかんたんにおしころされてしまう、いいかえれば愛情よりも結婚政策の先行する世の慣行に対して、純粋に人情の立場から反逆していると解してよいだろう」(『源氏物語』)と述べている。しかし、この事態を冷静中立の立場で見れば、帝の行き過ぎた更衣への偏愛や弘徽殿女御の立場にも理解はゆくものである。紫式部は「(帝の)さま悪しき御もてなしゆゑこそ、すげなう嫉みたまひしか」(「桐壺」巻)と書き添えることも忘れてはいない。ところで、帝と桐壺更衣の物語の準拠論やモデル論の立場からは、歴史上の仁明天皇(八一〇〜八五〇年)と藤原沢子の故実が引き合いに出されるが、「愛情の問題」が権勢支配の前に押し殺されてしまったと似たような事例が、実は一条天皇朝の貴族社会の眼前に繰り広げられていたのである。山本淳子氏は、一条天皇と故中関白藤原道隆の娘皇后定子の「純愛」を捉えて、物語中の桐壺更衣と皇后定子とが「符合すること」を指摘している(『源氏物語の時代』)。
時の権勢者は左大臣藤原道長、そして皇后定子のライバルは道長の娘中宮彰子である。紫式部が仕えるその人である。『源氏物語』の弘徽殿女御対桐壺更衣という構図は、準拠論やモデル論の視点では、皇后定子対中宮彰子には当てはまらない。しかし「人間の愛情の問題」として普遍的に捉えれば、皇后定子と桐壺更衣は「符合する」のである。準拠やモデルとしての一致性ではなく、「符合すること」が文学の感動として重要なのである。これをズラシといえば作者の創作方法の問題となろうが、そのことよりも作者紫式部は「物語」の中に、「歴史と人間」を問題としていることを見逃せない。歴史とはただ過去のことではなく現在のことでもありまた未来に語り伝えることでもある。一条天皇と皇后定子の「純愛」が歴史上に「物語」によって語り伝えられていくということである。官撰の史書などでは絶対に記録されることのない人間の真実が。
後に、冷泉帝が自らの出生の秘密を知った折に、広く和漢の歴史書を紐解き、自分のような事例がないかと読み漁るが、その結果、冷泉帝は「たとひあらむにても、かやうに忍びたらむことをば、いかでか伝へ知るやうのあらむとする」(「薄雲」巻)という結論にいたる。つまり真実の歴史とは記録されたものが全てではない。不都合な事柄は記録に留められないものだ。裏返していえば、書かれたことがまた真実にもなってしまう。紫式部はそう考えた。清少納言の『枕草子』がその良い例である。『枕草子』では中関白家の栄華の面のみを書き記し、不都合な面は書き記していない。歴史の真実を知らない者はそれをそのまま真実として信じ込んでしまうだろう。ここに清少納言や紫式部の「歴史意識」「歴史観」があるのだ。
一条天皇の皇后定子への愛情とその第一皇子敦康親王を皇太子にしたいという願望は当時の上層貴族に周知のところであった。そこに新しく入り込んできた時の最高権力者藤原道長とようやく裳着したばかりの娘中宮彰子はいまだ帝の愛情を勝ち得ぬ状態にあった。
そうした一条天皇ではあるが、中宮彰子は夫一条の思いを理解していて、わが子の第二皇子敦成親王(後一条)・第三皇子敦良親王(後朱雀)を措いて、故皇后定子が産んだ第一皇子の敦康親王を皇太子にという考えを持っていた。しかしそのようなことは、父道長の当然に認めるところでない。そうした出来事を天皇と道長の間で活躍した藤原行成は日記の中に「后宮(彰子)、丞相(道長)を怨み奉り給ふ云々」(原漢文『権記』寛弘八年五月二十七日条)と書き留めていた。
一条天皇から相談を受けた行成は、『伊勢物語』惟喬親王の章段でよく知られているように、文徳天皇が第一皇子惟喬親王(母・紀名虎の娘静子)を東宮に立てたいと思ったが、その母親の出自が低かったために、第四皇子惟仁親王(清和天皇、母・右大臣藤原良房の娘明子)が東宮となった先例を挙げて、そのことが困難であることを奏上し、一条天皇は遂に敦康親王を東宮に就けたいという思いを諦めた。
このことは、「桐壺」巻の桐壺帝が後見のない故按察使大納言の娘である桐壺更衣の産んだ第二皇子の光源氏を東宮に就けたいと願っていたが、真っ先に入内し、しかも右大臣の娘である弘徽殿女御が産んだ第一皇子が東宮に就くという話と裏返した形で「符合」する。物語中の帝(桐壺)と歴史上の帝(文徳天皇・一条天皇)の心の奥底は全く同じである。ただ、違う点は歴史上の天皇たちが第一親王を東宮に就けたいと考えたのに対して、物語中の帝(桐壺)は第二皇子を東宮に就けたいと考えたことだ。前者が儒教的倫理である長幼の序を尊重し、あるいはまた最も無難で消極的な選択法であったのに対して、物語では母親の出自の低い第二皇子(光源氏)を右大臣娘弘徽殿女御が産んだ第一皇子を超えて就けたいとした変則的かつ冒険的な選択であったことだ。
しかし、それをただ帝の第二皇子への偏愛や盲愛と見たのでは、大事な問題が見落とされてしまうのではないか。なぜ、物語中の帝はそう考えたのか。その理由は「光る君」「この世のものならず清ら」「いみじき武士、仇敵なりとも、見てはうち笑まれぬべきさま」「すべて言ひ続けば、ことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さま」(「桐壺」巻)などと語られているように、そのような資質を持った子なのだ。ただ普通の可愛いからとは違う。だからこそ帝は我が皇位継承者としたいと考えたのである。つまりここには我が継承者とはどういう人物にするべきか、という重大な問題が提起されているのだ。
とはいえ、『源氏物語』では、第二皇子・光源氏は臣下に降り「源氏」を姓として生きていくことになる。そして後に冷泉帝が出生の秘密を知ることによって、その実の父である光源氏に准太上天皇という地位を与える。冷泉帝の治世は「若菜下」巻まで在位一八年間に及ぶ。その間、光源氏は権大納言、内大臣として活躍するが、「少女」巻で太政大臣となり六条院が落成して以後の物語は六条院を舞台にして四季の風雅の物語が語られるが、それは物語の実質性において光源氏こそが時間と空間を支配している物語なっている。換言すれば、光源氏三五歳から四五歳まで約一〇年間の物語は「光源氏天皇の物語」として語られていたのである。真の後継者とは何であるべきかを示唆する物語である。
むすび―古典とは何か
最後に、「古典の日」宣言の中に「古典とは何か」を改めて問い直した文章がある。「風土と歴史に根ざしながら、時と所をこえてひろく享受されるもの。人間の叡智の結晶であり、人間性洞察の力とその表現の美しさによって、私たちの想いを深くし、心を豊かにしてくれるもの。いまも私たちの魂をゆさぶり、「人間とは何か、生きるとは何か」との永遠の問いに立ち返らせてくれるもの。それが古典である」。この言葉を反芻し、改めて『源氏物語』を読み直したい。『源氏物語』は、まさにそのような作品であり、今や時代を超え空間を超えて、世界二三の言語(アッサム語・アラビア語・イタリア語・英語・オランダ語・クロアチア語・スウェーデン語・スペイン語・セルビア語・タミール語・チェコ語・中国語(簡体字)・中国語(繁体字)・テルグ語・ドイツ語・日本語・ハンガリー語・ハングル・ヒンディー語・フィンランド語・フランス語・ポルトガル語・ロシア語 伊藤鉄也氏二〇〇八年九月現在)に翻訳され、まさに「世界文学」として読まれているのである。(おわり)
筆者プロフィール
渋谷 栄一(しぶや えいいち) 高千穂大学経営学部教授〈国文学・源氏物語〉
編著書『源氏釈』(源氏物語古注集成16)、『講座源氏物語研究』(第三巻「源氏物語の注釈史」)、『源氏物語の季節と物語 その類型的表現』(新典社新書15)、監修『源氏物語を楽しむ本』
HP「渋谷栄一(国語・国文学)研究室」(http://www.takachiho.ac.jp/~eshibuya)