平成20年10月 第2333号(10月1日)
■地域共創 ―高島平再生プロジェクトとは―<下>
分業の論理超えた市民社会へ 問われる大学のガバナンスと質
明確な意志決定のできない組織は、どんなに活発に見えても必ず崩壊する。知らぬ間に人心が離れるからだ。たった数名の勉強会から始まった高島平再生プロジェクト委員会にとっても、高島平再生プロジェクト(高P)への期待から参加者が四○〜五○名に急増したこの三〜五月が、そうした危険にさらされた時期であった。
本学の現代GPのテーマは「『持続可能な都市再生』の担い手を求めて―高島平再生プロジェクトによる『環境創造型人材』の育成―」である。
一見して明らかなように、大東文化大の現代GPプログラム(GP)では、GPの母体である高Pとその嫡子とも言うべきGPとは、本来一体のはずのものである。ネジレたり対立するはずのものではなかった。ところが、そこには思いもよらぬネジレの芽が潜んでいた。
もともと、高P及び同委員会は、自らの自由な意志で高島平の街と大学の再生を願って発足した研究・実践運動体であった。これは一つの使命感に支えられたボランティア活動といってもいいだろう。この精神が高島平GPの申請に際しても継承されていたならば、二つのP(高PとGP)がネジレをきたすということはなかったであろう。しかし、高Pの精神から離れ、GPを文部科学省の助成金に由来する職務の遂行として捉えるスタンスに立てば、一体どういうことが起こるだろうか。
かたや使命感に支えられた無償のボランティア活動、かたや助成金に起因する有給の職務労働。この異質なものをまとめられるのは、高Pの理念がしっかりと共有された場合のみある。逆に言えば、「多様な世代の共住・多文化共生・自然共生を可能にする、新しい都市公共世界の創造」という高Pの理念が共有されていない限り、「自由な意志に支えられたボランティア活動」と「助成金に由来する職務遂行」とは、相反するベクトルとして働く可能性が高くなる。地元住民、大学教員、そして学生達が一同に会した場で、社会人であれば自分の職業や職務、学生であれば単位や就職活動などに基づき発言したらどうなるか。議論はねじれにねじれ、参加者は嫌気がさして、いずれ皆去っていく。
とはいえ、「使命感に立った自由なボランティア世界」と「所得や助成金等のオカネに規定された職業世界」との乖離と対立は、決して大東文化大に固有な問題ではない。現実世界を支配しているのは職業世界の「分業の論理」である。行き詰まっているのは、大は中央官庁の事務機構から小は大学内の各種委員会に至るまで、縦割りに甘んじがちな「堕落した分業の論理」なのである。それゆえ、「ボランティア世界」と「職業世界」の乖離と対立は、持続不能な状態に陥っている現代社会そのもの、アポリア(行き詰まり状態)なのだ。
高Pが「地域・大学連携事業の最先端」と言えるのは、単に連携事業の新しいノウハウ、技巧が蓄積されたという意味ではない。その意味することは、こうした現代社会のアポリアを乗り越えることなしには、高Pの活動は一歩も前に進めないことをどこよりも早く、どこよりも明確に、どこよりも厳しく教えられたところにあったのである。
高島平―それは「高嶺の花といわれた昔」も「少子高齢化最前線の今」も、いつの世も時代の最先端を歩むことを宿命づけられた街である。
では、高Pは高島平の街でこのアポリアを実際にどのようにして乗り越えていったのだろうか。アポリアの克服にはいくつかのステップがあるから、正確には「乗り越えつつあるのか」と言うべきだろうか。そのステップとは、高P事業のガバナンス確立に伴う、次の三つである。A高P委員会と教員のGP実施委員会とのネジレの克服、B学部(環境創造学部)における高P及びGPの位置づけ、C大学(大東文化大)における高P及びGPの位置づけ。
まずAであるが、これは次のB及びCと整合的な関係が確立したところで、真に解決可能な問題である。この問題についてはさしあたり、教員・学生・地元住民の有志からなる高P委員会の責任者がGP実施委員会の長を兼ねることで、両者のネジレを最小化することができた。その限りではささやかな一歩に過ぎない。だが、学生、教職員、地元住民にとって高Pの責任主体が一元化されたことで、意志決定上の不安が一掃したという意味では大きな第一歩であった。
責任主体を一元化するプロセスにおいて地元住民有志から、高P委員会の定義として、「大学と地元住民という二つの水域が交わる汽水域」(「連携は汽水域にこそ成立する」、『都政新報』二○○八年六月十三日号所収)という考え方が提起された。淡水と海水が交錯する河口や湖沼などの汽水域には、全海洋生物の半分の種類が生息しているという。汽水域を人間社会に当てはめれば、各人の職業や身分の如何を問わず、人が同格の人格として相互に承認しあう市民社会に該当する。高P関係者の間で大きな共感を集めた汽水域=市民社会論が、責任主体問題の解決に大きく貢献したことは言うまでもない。
責任主体が一本化された高Pは、GPと直結することで本来の姿を回復した(図参照)。しかし、そこにはまだ、いま一つの新たな問題が潜んでいる。つまり、高PはGPを包含するがゆえに、GP助成金の対象である環境創造学部のガバナンスが高Pのガバナンスを一方的に規定するという事態が起こりうるのだ。教授会議長を務める学部長のさじ加減一つで、自治による教授会ガバナンスが危険にさらされる例は枚挙に暇ないだろう。これでは、ネジレの所在が学部教授会の場に移ったに過ぎない。だが、仮にこの問題が首尾よく解決されたとしても、環境創造学部と大東文化大全体のガバナンスの方向が不協和音をきたせば、日本の象徴、高島平を再生し、日本全国に希望の火を灯すことは画餅に帰すだろう。
高Pの行方を大きく左右するという意味で、学部、さらには大学のガバナンスと質が問われているのである。「高P」を「大学の地域連携事業」に置き換えるならば、ガバナンスの質は、潜在的にはすべての大学が直面する共通問題であることは明らかである。では、肝心の学部・大学のガバナンスの質を決めるものは何だろうか。私見によれば、それは、ク学部、大学の理念の明晰さ、ケ理念を具体化する方法=学問の明晰さ、コ社会に通用する研究実績に支えられた、自由な大学人の存在、以上の三点である。幸い、二○○八〜二○○九年は、本学にとって文部科学省の認証評価の年に当たる。
認証評価は、前述の三要件をしっかりと問い直し、「地域に根ざし、世界を視野に入れた大学教育再生」する最後のチャンスである。教育再生の要諦は、教員自身が時代と地域から、生きた現実を学び取れるか否かにかかっているのだが、その限りでは、GPも認証評価も目的は同じである。《教員が変われば、学生も変わる!》。
以下は、「市民社会・資本主義」という私の前期講義で一番興味深かったのは何かという問いに対する回答の一つである。そこに、大学教育再生の希望の灯が見えないだろうか。
「高島平再生プロジェクトの話です。今まで団地が過疎化しているとは知らなかったし、そのことで大学生が活動していることも知りませんでした。でもテレビとか、ニュースとかで見たときに、自分の通っている学部はこんなすごいことをやっているんだ、という驚きと感動がとても大きく、自分にも何かできることがあるんじゃないかと思いました。ただ単に、団地をどう再生するかを考えるのではなく、実際に行動に移すことがすごいなと思いました」。
等身大の地域社会の再生経験を通して、この素直な「驚きと感動」を学生自身が自らを治め、そして自らの社会をも治めていく精神へと変換していく。思えば、高島平における「地域・大学連携」は、理念や希望が死語になりつつある国・日本の「明日に架ける確かな橋」であった。