平成20年2月 第2303号 (2月6日)
■深夜の祈り
十二支の一つ「子(ね)」は、その一番目に位するものですが、深い夜更けをも意味するといいます。
「子年の弁」と題するこの欄に一文を仰せつかって、この「一番目」ということを改めて考えさせられてしまいました。現代という社会は、その一番目に大切なものを考えようとしなくなったのではないか…という思いです。
わが学園の創立者シスター江角ヤスがこよなく愛した言葉があります。「マリア様、嫌なことは私が喜んで」というものです。平凡といえば平凡な響きの言葉ですが、初めてこの言葉に出会った方々がおっしゃいます。「どきっとしました…」と。それは、人間にとって一番目に大切なことであり、沈黙の深い夜に湧いてくる思いです。
人間は残念ながら、何と自分を中心に考え、何と自己中心に行動する生きものでしょう。例えば、さまざまな組織社会に生きている私たちは、議論し、ぶつかり合いながら仕事を進めていかなければなりませんが、じっと耳を傾ければ、それらは、単なる批判であったり評論であったりして、嫌なことを主体的に受け止めた上での議論になっていないことがあります。
人間は弱い存在です。無私の立場に立つことはそれほど易しいことではありません。たとえば、たった一言の朝のあいさつでも、人より先にやろうとすることだって難しいこともあります。重いものよりも軽いものを持とうとする気持ちになるのも人間です。
しかし、シスター江角は、それを乗り越えていこうと訴えつづけた人でした。「キリスト教ヒューマニズムに基づく全人教育」という建学理念を、いきいきとした具体的な息づかいのメッセージとしました。
夜半の静寂の中で思いをめぐらせれば、私たちは、この一番目を失いつつある…とそんなことに気づかされます。私たちの大学・短大は、ひたすら、この思いを根底にした「いのち」の学府であり「知」の学府でありたい。その願いを、さらに「いのちの育む知性と愛」という言葉におきかえて二十一世紀を生きぬこうとしています。
何ごとも、道に迷ったら原点に戻ればいいのです。そして、私たちにとっての原点とは、まさにこの「江角メッセージ」です。この人間教育の裏打ちされた専門的知識・技能がなければ、生きて働く力、本物の「学」にはならないだろう…という教育理念です。
子の年のはじめ、改めてこの原点を見つめる自己省察の年にしたいものと念じております。