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平成20年1月 第2299号(1月1日) 2008年新春特集号

環境問題と学問の殻

 鳥取環境大学前学長 加藤尚武

 今日、環境問題、特に、温暖化への対策が社会的に注目されている。昨年、ノーベル平和賞を、映画「不都合な真実」で世界に温暖化の危機を訴えたアル・ゴア前米国副大統領と、国際的な気候変動の専門家集団である「気候変動に関する政府間パネル」が受賞した。また、本年から京都議定書(解説は下段)の第一約束期間に当たるため、国を挙げて温暖化対策の強化が求められている。教育機関も昨年に全私学連合をはじめ、日本私立大学協会等各団体が、温暖化対策に関する自主行動計画を策定する一方で、本紙二二九六号の「環境対策は教育・研究を第一に〜武蔵工大増井環境情報学部長に聞く」でも見られるように、各学校で取組が始まっている。環境問題と学問の関係について、鳥取環境大学前学長の加藤尚武教授に寄稿して頂いた。

 京都議定書の目標に対して、どの程度の実績を挙げるか。京都議定書以後の温暖化対策として、どの程度の目的等を設定するか。
 これが現在の課題であるが、二〇〇七年三月に、イギリスのブレア首相(当時)が「二〇五〇年までに六〇%削減する」という数値目標を達成するように国民に法律的に義務づける法案を発表した。「イギリスが法的拘束力のある目標を定める最初の国になる」という文面が、ニュースに出ていた。各家庭に「炭素カード」(carbon ncard)が配布されてエネルギー消費量が追跡され、割当量を超えると電灯が消えてしまうとか、トイレや浴槽の水のリサイクルが行われ、無料の肥料として排水が使われるとか、ショッキングなことが実際に起こりますよという記事が出ている。車は、電気自動車や水素自動車に置き換えられる。
 面白いと思ったのは、「家族で休暇をスペインで過ごすことが外国旅行として禁止される」という表現である。イギリスからドーバー海峡をフェリーで渡り、フランスやスペインに行くことは、現在のイギリス人にとっては国内旅行という感覚だろう。戦時統制経済のイメージが浮かんでくる。  温暖化対策が要求する社会改革は、自由主義の原則そのものを揺るがす規模になるかも知れない。学問は、それをただ眺めて、その同一性が乱されない範囲で協力するというような「へっぴり腰」の対処で済むのだろうか。

1、現代における学問の使命は、殻を半分剥がして見ること

 現代における学問の使命とは何か。
 既成の学問が、こうすることで安全であり存在理由があると思いこんできた殻を半分剥がして見ることである。殻を剥がす、覆いを取り除くと真理が見えてくるのではない。現在という時代は真理を覆い隠すほどの幅と厚みのある、イデオロギーや宗教的な信念、政治的な発言が存在しないのであって、学問の使命はそのような熱狂から距離を保つ禁欲の情熱の中に成り立つということはない。
 学問の殻を半分剥がすことで見えてくる二つの相、一方には「腐っても鯛」といえるとは限らないが、ともかくアカデミズムの伝統が作り上げてきた調査法、調査結果の集約法、その表現方法の一応の定式がある。今はどこでも一定限度の「型破り」に通行許可が与えられているので、相当破格なスタイルでも学会で発表を許される。破格なスタイルを売り物にしたような発表は、大抵は発表者の才能の欠如をさらけ出すので、わざと伝統的なスタイルを身にまとおうとするずるい若年寄りスタイルを選ぶ発表者もいるが、発表のスタイルにこだわりを見せることは、結局は才能の不在を印象づけることになる。
 学問の殻を半分剥がすというのはそういうスタイルへのこだわりを捨てるためである。半分剥がして、生の素材が新鮮な表情をして、まるで見る人が素材によって見られているような錯覚すら起こすほど、見えてくるのではない。半分剥がしても、大抵は別領域の古い殻を被った、少し違った現実が見えてくる。自分が親しんできたアカデミズムの手法で描き出される現実と、それとは違う現実と二つの相が見えてくる。
 私の専門は哲学・倫理学であるが、その殻を半分剥がして環境問題という地肌に触れようとしている。おもちゃ箱をひっくり返したような因果関係の集積が目の前に見えてくる。化石燃料の過剰消費が温室効果ガスを大気圏に滞留させて、地球が温暖化しているという因果関係。この表現に対して私はどういう責任を取れるのだろう。地表の季節ごとの温度がわずかに変化しただけで異なる生物種の相互の食物連鎖が分断されたり、ゆがめられたりして大量の生物種の絶滅という帰結が起こる因果関係。  因果関係と責任という二つの言葉は、私を哲学の領域に引きずり込むのだが、学生に向かって「因果関係と責任」についての概念史の略述をして見せなくてはいけないというもどかしい思いにとらわれる。環境問題が突きつけてくる因果関係と責任の問題に少しでも哲学の領域から寄与しようと思っても、すぐに使える既成の学説はないのだ。確かに二十世紀の科学哲学の専門家たちは因果関係について論文をたくさん残している。しかし「温暖化の因果関係が明らかになった以上、それを予防することはその原因を生み出している国の責任である」という命題に対する疑問に明確に答えることに寄与するような哲学論文はない。  因果関係と責任が結びつく文脈は、大抵の場合、因果関係を一〇〇%確実と見なすという想定の基に置かれている。例えば刑事責任の成立根拠には、因果関係を認識して原因となる行為を遂行した者には、責任が成立するという考え方が採用されるが、確実度が高くない因果関係で、しかも無数の人間のそれ自体としては「一応無害」と見なされる行為の結果が温暖化をもたらすと、き責任はどういう形になるかという問題には、哲学は答えを用意していない。

2、経済学の殻を半分剥がしてみる

 二〇五〇年までに温暖化原因ガスの排出量を五〇%削減するというのが、日本政府の世界への提案である。もしこれが受け入れられると、例えば石油消費を半分にすると生活水準はどのくらい下がるかという問題に具体的に答を出しておかなくてはならない。世界全体の石油消費量が現在の半分であった時は、だいたい一九七〇年である。日本では現在の平均余命が男七八歳、女八五歳だが、一九七〇年では男六九歳、女七五歳ぐらいだった。確かに長生きになった。しかし、人生の幸福は二倍にはなっていない。海外旅行に行く人の数は一〇倍ぐらいになっている。しかし、自殺者はだいたい二万人から三万人に増えている。失業率は、二%から四%に上がっている。貧富の格差は今よりずっと少なかった。
 世界全体で、どこでも国が豊かになると貧富の格差が大きくなる。いったん格差が広がると、貧しい人の適応力が弱くなって、少しの社会的変化でも人生が悲惨なものになってしまいがちになる。
 すると、私たちはエネルギー消費量を二倍にすることによって、人生を豊かにするものを増やしただけではなくて、人生を悪くするものも確実に増やしていることになる。温暖化の進行、森林量の減少、資源の枯渇というようなデータをとれば、一九七〇年以降、生活が悪くなったという証拠を示すことができる。
 どうして全体としての物やエネルギーの消費量がつねに増加するのか。増加すると社会的な格差が拡大して、社会全体では悲劇的な人生を送る人が増えている。例えば自殺者が増加している。われわれは豊かになる仕方を間違えていたのではないだろうか。この間違いを直さないで、エネルギー消費を半分にするという政策を機械的に強行すれば、「上流階級の犯した罪の償いが下層階級に課せられる」という不正を引き起こすかも知れない。
 無駄な消費が増加する傾向を説明した経済学説者としては、ヴェブレンが最も有名である。「高度に組織化されたあらゆる産業社会では、立派な評判を得るための基礎は、究極的に金銭的な力に依存している。金銭的な力を示し、高名を獲得したり維持したりする手段が、閑暇であり財の顕示的消費なのである。したがって、実行可能な最下層まで、この二つの手段が流行する。」(ヴェブレン「有閑階級の理論」高哲男訳、ちくま学芸文庫、99頁)
 社会全体が浪費しようとする傾向を持っていることになる。これは自分よりも良い生活をしている人が羨ましいという気持ちを誰もが持っているからだろう。ケインズは「人類の必要には二つの種類がある。他人がどうあろうと自分はそれが欲しいという絶対的な必要と、それを満足させれば他人よりも偉くなった気がするという意味で相対的な必要との二つである」と述べて、自分を他人と比較して自己満足を得たいという人間の欲望の在り方に着目している。  それでは経済学者は、必要な消費と不必要な消費とを区別すべきではないのだろうか。「日本は世界で二番目に豊かな国です」と指摘されても、その豊かさの中身が人生にとってマイナスのものであったら何の意味もない。
 ところがガルブレイスによると近代経済学は、その区別をしないのだそうだ。「経済学は財貨に関するものだが、その財貨について判断を下す権利はない。財貨が必要なものか不必要なものか、重要なものか重要でないか、というようなことは、経済学の領域には入らない。いっそう多くの食料がほしいという欲望は正しく、もっと高価な自動車がほしいという欲望は軽薄である、というようなことを言いたくなる人は、経済学の訓練が全然なっていないとされてしまう」(ガルブレイス「ゆたかな社会」鈴木哲太郎訳、岩波現代文庫191頁)
 経済学者たちにとって「食料」と「高価な自動車」の区別をしないということが、その学問の価値中立性(ヴェルト・フライハイト)を支える中心的な方法論的原理であったのだろうが、そのことは「エスキモーにストローハット」を売りつける企業戦略の正当化の文脈とどこかでしっかりとつながっている。
 私たちの社会の中に働く浪費を生み出す隠れた力は何か。人生の豊かさではないものを意図的に作り出してしまう仕組みはどこにあるのか。ヴェブレンやケインズだけでなく、あらゆる智恵を集めて「偽りの豊かさ」を減らすことで本当の人生の質の良さを実現する文化を創り出すことが、私たちに課せられている。そのためには経済学の殻を半分剥がしてみる必要がある。

3、政治学の殻を半分剥がしてみる

市場経済には生産と消費の効率性を高める機能(見えざる手)が内蔵されている。公共財などの社会的基盤が整備されていなければ、この機能は発揮されない。政治の目的は、市場経済の効率性達成効果を最大にすることである。
 市場経済が効率性を発揮する基本的な仕組みは競争というゲームであるから、市場経済は絶えずゲームの勝利者と敗北者を生み出す。ゲームが、敗北者にとっても有利であるような展開になることは、ゲームのなかで産出される富が敗北者にも配分されるという効果に基づいている。エネルギー消費の総量が縮小し、廃棄物の排出がコストとなるような環境規制が働くと、敗北者にとっての相対的な利益配分は生まれなくなる。もっとも理想的な生産形態は、エネルギー消費効率のもっとも優れた企業だけが生き残って生産することである。つまり、自由主義経済が公正を保つには、自由競争を維持するための余剰が不可欠である。余剰を限りなく少なくすれば、敗北者が救われる余地はなくなる。
 権力性には、公正を達成する機能が内蔵されていない。だから権力が強化されればされるほど、社会的な公正が維持されなくなる。国家が外部の敵の威力にさらされたとき、権力を強化することが国家の目的に適合した行為となるが、そのことはしばしば、公正を犠牲にするという結果をともなう。ブッシュ大統領は拷問と盗聴を行うことを正当化した。プーチン大統領はどんどんスターリンに近づいていく。
 権力の公正を維持するためには権力を立法権力、司法権力、行政権力に分割する必要がある。これら権力はすべて法律によって制限されているが、立法はその法律そのものを変える権限を持っているので、行使できる自由度が高い。その立法権力に制限を付ける機能が選挙であって、国民の審判を直接に受ける。立法権力をにぎる国会議員が、立法の技術を知らないために、行政に依存している。本来の建前では国会図書館があり、政策秘書を持ち、行政からも情報提供をうけて、国会議員の立法能力が支えられているのだが、実際には、国会議員の主たる力量は選挙民対策に投下されている。
 国債の発行高を限りなく増やしていって、利益誘導によって選挙民の支持を得るという与党にとって有利な体勢が、財政健全化という目的とは一致できない。財政健全化も広い意味での持続可能性の確立に含まれる。財政健全化という目標を追求しながら、つまりばらまき政治を引き締めながら、内閣の支持率を高めるパフォーマンスが政治家に要求されている。
 進歩の風が吹いている内は無事だった。未来世代が現在の世代から利益の贈与を受け続けているなら、未来は必ず現在よりも明るい。ところが現在世代が、資源の枯渇と廃棄物の累積とによって、未来世代に負の遺産を残しながら、未来世代を生存不可能という崖っ淵に近づけていく。しかし、未来世代は、選挙を通じて政治に注文をつけることが出来ないから、選挙はおおむね現在世代の未来世代に対するエゴイズムを助長する。例えば国債発行高を増やす。
 政治家にとって直接的な目的とは、たとえ未来世代に犠牲を押しつける結果になったとしても、現在世代の歓心を買うことである。「現在世代のみなさん、未来世代のために犠牲になって下さい」と叫んでいたのでは、選挙で当選できなくなる。
 環境対策を立てるということは、政策の基本目標を持続可能性の確立に置くことを意味する。持続可能性の確立が、最高の優先課題である。政治そのものが、持続可能性の確立を究極の目標とするように転換しなくてはならない。しかし、そういう転換は可能なのだろうか。
 資源枯渇と廃棄物の累積によって、現在世代と未来世代の利益が相反する状況のもとでは、その相反そのものを解消すること、すなわち持続可能性を確立することが究極目標になる。しかし、そのことは短期的には現在世代に禁欲を強いる結果になる。この転換は、財政健全化と基本的に同じ構造をしている。日本の政治が財政健全化と環境対策強化へと同時に大転換する可能性だけが現実的なのであって、どちらも掛け声だけでお茶を濁し、「教育改革」等の小手先芸で内閣支持率を高めようとする姿勢は、日本人の生活を破綻に導くことになる。
 こうした状況を打開するためには、あらゆる学問の殻を半分剥がして見ることが必要であるように思われる。

京都議定書
 一九九四年に発効した「気候変動枠組条約(大気中の温室効果ガスの濃度の安定化を目的とし、温暖化がもたらす悪影響を防止するための国際的な枠組みを定めた条約)」では、先進国について一九九〇年代末までに、大気中の温室効果ガスの濃度を一九九〇年の水準に戻すことが目標とされたが、法的拘束力をもった削減義務は課されていなかった。
 しかし、一九九七年十二月、同条約の第三回締約国会議において、法的拘束力をもった温室効果ガス削減のための議定書が採択された。京都で採択されたので、「京都議定書」と名付けられた。
 その後、京都議定書に関する運用ルール等についての交渉が行われ、二〇〇五年二月十六日に発効。(米国、豪州などは不参加)地球全体での温暖化対策への第一歩が踏み出された。
 京都議定書では、先進国の温室効果ガス排出量について、法的拘束力のある数値目標が各国ごとに設定された。先進国全体で、二〇〇八年(本年)から二〇一二年までの期間に、削減基準年(一九九〇)の排出量から五・二%削減することが約束された。我が国は六%の削減を約束している。
(参考:全国地球温暖化防止活動推進センターのホームページ)

《 加藤尚武氏プロフィール 》
 一九三七年 東京に生まれる
 一九六三年 東京大文学部哲学科卒
 一九六九年 山形大教養部講師・助教授
 一九七二年 東北大文学部助教授
 一九八二年 千葉大文学部教授
 一九九四年 京都大文学部教授
 二〇〇一年 鳥取環境大学長
 二〇〇七年 東京大医学系研究科、生命・医療倫理人材養成ユニット特任教授
著書
 『ヘーゲル哲学の形成と原理』(未来社、一九八〇年)
 『哲学の使命』(未来社、一九九二年)
 『ヘーゲルの法哲学』(青土社、一九九三年)他多数

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