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平成19年4月 第2268号(4月4日)

若者が育む地域、若者を育む地域 −3−

松本大学 総合経営学部 観光ホスピタリティ学科教授 白戸 洋

  松本大学(中野和朗学長)は、「地域を活かす、ひとづくり大学」をコンセプトに二〇〇二年に誕生した。松商学園の一〇七年の歴史に裏づけられた地域との信頼関係をベースに、地域に根ざし、地域に貢献できる人材を育成するための教育を展開している。同大学では、「アウトキャンパス・スタディ」という地域に出て実践的に学ぶプログラムを推進するとともに学外から講師を招く「教育サポーター」を定着させるなど、さらに地域社会との連携を強めている。このたびは、同大学の地域連携の取り組みについて、総合経営学部観光ホスピタリティ学科の白戸 洋教授に執筆して頂いた。今回は最終回。

 変わる意識〜まちづくりで若者が育つ
  「初めは松本のいいところを紹介する程度の意識だったけれど、住民の一人として松本の街をどうよくしていけるかを考えるようになった」松本の中心市街地を調査し、その成果を「タウンマップ」としてホームページにまとめる活動を進めているゼミナールの四年生の言葉である。
  彼らの中心市街地との関わりは、一昨年、すなわち三年生の春からである。二〇〇五年五月、松本中心市街地の活性化の拠点として大学と商工会議所、市が連携して設置した「まちづくりステーション・ふらっとプラザ」の事業として、三つのゼミナールが合同で松本市街地の街づくりの現状に関するアウトキャンパスを実施した。
  駅ビルやパルコ、駅前のゲームセンターや居酒屋など、普段出入りしている場所とは異なる、松本の街をじっくり歩いた学生たちは、研究テーマとして、松本の街のガイドブック作成に取り組むことになった。学生たちは、自らの関心に沿って、「バリアフリー」「子連れの母親」「自然環境と水」という三つのテーマに分かれて調査活動に取り組みだした。初めは、ゼミナールの勉強程度と考えていた彼らは傍観者にすぎず、せいぜい「学生さんの理想論」を口にしていたが、街づくりに関わる多くの人々と出会う中で意識が大きく変わっていった。
  街中のトイレを一つひとつバリアフリーの観点から調査した学生は、ユニバーサルデザインについて研究実践活動を進める建設・建築関係者の団体「ユニバーサルデザイン研究会」や障害者自立支援センターと連携し、時には夜の街で酒を交わしながら議論に参加してきた。子連れの母親の街での居場所を調査した学生は、子育て支援に関わる行政、NPOの活動に参加する中で、単なるスポットの紹介にとどまらず、女性や母親、子どもたちが抱える根深い問題に目を向けていった。
  さらにアルプスの伏流水が湧き出す市街地の井戸の調査に取り組む学生は、一日中井戸に張り付き、そこを訪れる人や水を汲む人たちと触れ合い、水を守り暮らしの中で活かしていく人々の営みを体感した。学生たちは目に見える街の向こうに人々の営みや暮らしを感じ取り、自らを一人の主体者として自覚し、自分の問題として街づくりに取り組むようになった。学生は、とかく面白いとか役に立つことには飛びつくが、壁にぶつかったり、うまくいかなくなると逃げてしまうことがある。
  単位のために街と関わる学生もおり、卒業したらそれで終わりとなって、地域はただ利用されたことになってしまう。しかしタウンマップに取り組む学生は、人とのつながりの中で、自分の関心や損得を超えて、地域や社会の中に自らを位置づけ、その役割を果たそうと考えるようになった。若者が地域に学ぶことで、地域を担う若者を育てることができる。

  学生が参画した松本駅西口地域のまちづくり
  二〇〇六年十一月、JR松本駅の西口近くに、コミュニティ蕎麦屋「いばらん亭」が、和太鼓サークル「松風連」の学生による力強い太鼓の演奏とともにオープンした。駅周辺の巾上西区町会の人々と学生の地道な街づくりが一つの形になった瞬間だった。松本駅西口は、松本城のある近代的な街並みの東口と異なり、小さな古くからの民家が立ち並び、路地が入り組んだ昔ながらの下町の雰囲気が残る街であった。
  二〇〇三年、松本駅の改築にあわせて、駅前広場の整備と駅へのアクセス道路の拡幅によって、地元の巾上西町会の住民の三分の二が立ち退きの対象となった。高齢化率が六〇%を超える街は、崩壊の危機に直面した。松本大学に街づくりに関して、協力をして欲しいという要望が町会から寄せられたのはこの頃であった。大学の教員が講師になって学習会が始まったが、最初は立ち退きに関わる個々の法律的な問題がテーマとなった。法的には開発は止められないことが明確になるにつれ、住民の中から、それでも元気を出して街づくりをしようという声があがり、二〇〇四年から教員が協力して街づくりの勉強会が開始された。ゼミナールのアウトキャンパスで学生が、初めて巾上の現状を知ったのもこの頃である。
  八回にわたって学習会が開催され、住民の間に街づくりに対する意識が高まり、アルプスが一望できる景観を守る街、高齢者が安心して幸せに暮らせる街、そして訪れる人がほっとするような田舎の懐かしい街という街づくりの理念が掲げられた。高さ制限などの景観に関する住民協定の検討、住民の交流拠点で、高齢者の仕事の場、生きがいの場としての蕎麦屋の出店など、具体的な事業が進められることになった。住民の連帯を強めることを目的として、二〇〇五年六月には初めて住民が主体となって「駅西下町まつり」を開催した。秋からはゼミナールの活動として学生が街づくりに関わるようになり、冬には長野市の市街地再開発の現状の視察や、街づくりのシンポジウムが学生も参加して行われ、徐々に街づくりのあり方が住民の間に共有されるようになった。そして二〇〇六年春からは、蕎麦屋の開店を視野に入れながら、月一度の朝市を町会と学生が協力して開催し、日曜日の街に若者の元気な呼び込みの声が響き、徐々にではあるが街づくりが動き出している。

  地域が学生に期待すること
  駅西の街づくりでは学生が大事な役割を担った。高齢化が進む街では、人々の気持ちは常に揺れ、本当にできるのか、後継者はどうするのか、年寄りばかりでどうしようもないという不安から、何度も街づくりは挫折する危機に直面した。それでも街づくりへの動きが止まらなかったのは、いつも出入りしている若い学生の存在であった。街づくりは五〇年、一〇〇年の時間がかかるものである。自らの人生の先にある街づくりをイメージできなくなるたびに、人々は挫けそうになる。しかし、その時、自分たちの想いをつないでいく若者が、側にいるだけで元気になるものである。勿論その学生が街づくりを担っていくわけではないが、それでもいつかこのような若者が引き継いでくれるのではと思うには、学生の存在は充分である。
  大学での学びを自ら形にした学生もいる。Aさんは、仕事に疲れて家にこもりがちな妹や介護に追われる母親の生き甲斐づくりに、自ら図面を引き、保健所の講習を受けて地域の交流の場となるようパン屋「ベーカリー麦の穂」を開業した。また社会人学生のMさんは、子育て支援組織「ウィメンズ・ネットワーク」を立ち上げ、学生も巻き込んで事業を展開している。
  「まちづくりのハードは変えられないけれど、まちづくりは人の心が変わること。人の心なら自分たちも変えられる」ゼミナールの学生たちがすでに提出した卒業論文をもとに、若者と街づくりについて、自分たちの体験と想いを伝えようと、現在本の出版に取り組んでいるが、その中である学生が自分の想いをこう表現している。彼らは、街の中に自分たちの役割と場を見出したようである、学生は地域で育つ一方で、地域を育てる担い手でもあり、学生にしかできないこともある。

  時間をかけて地域とつながろう
  二〇〇五年の年末に、大学の地元新村地区のJA青年部のメンバーと学生が、地元の特産物である米を活かしてなにができるかというワークショップを行った。その成果は、翌年から米の特産化プロジェクトとして学生の取り組みへと発展し、我々にとっては大きな意味を持つワークショップであった。JA青年部との交流は、一九九九年から始まり、二〇〇二年の松本大学開学からは、一緒にさつまいもづくりに取り組んだ。しかし「さつまいもを植えるなど大学生のすることか」など学内外から揶揄にも近い声が聞こえたのも事実であった。さつまいもづくりにしても交流が主体で、なかなか進展しないまま数年が経っていた。もちろん村づくりや特産化を最初からテーマにした事業もできたかもしれない。しかし、信頼関係のない中では多分長続きしなかっただろう。七年の時を経て、深まりつつある人間関係が、単なる交流からはじめて一歩を踏み出させ、特産化のワークショップにつながったと思う。我慢して絆を創ってきてよかったとつくづく思う。あわてなくても地域は逃げることはない。地に足をつけて地域と向き合っていきたい。(おわり)

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