平成19年4月 第2268号(4月4日)
■エッセイE ビランの言葉
五回にわたって私の考えている「健康観」についてのシリーズものを書き、今回はそのまとめとしての終編を書くことになった。
私が九五歳を過ぎた年齢になって、最後に書きたいことは、習慣としての健康論であるが、習慣は生き方、エシックスに関係するとともに、健康をもたらすものでもある。
人が自分の健康について、これこそいのちを支える上で一番大切なものである、ということを完成するのは、何か大病をした時か、または終わりに近い人生を顧みての実感である。
私は七〇年もの間、臨床家としての生活をし、その間に数多くの患者やその家族に接してきたが、自分の健康を意識するタイミングの遅すぎる人が何と多いことかと痛感している。
この連載を終えるにあたって、そういうことについて書いてみたいと思う。
メーヌ・ド・ビランというフランスの哲学者(一七六五―一八二四)を私が初めて知ったのは、大阪大学でフランス哲学を講義していた澤潟(おもだか)久敬教授が、戦後の日本の医学教育に生命についての意味を教える講座の必要なことに気づかれ、大阪大学医学部に始めて「医学概論」という講座を設けて、澤潟教授が日本における最初の医学概論の担当の教授になられた時であったが、彼はその「医学概論」の中の巻頭に次のメーヌ・ド・ビランの言葉を紹介しているのである。
「悩まない時には、人は自分自身をほとんど考えない。病気あるいは、反省の習慣が我々の内に下りてゆくことを我々に強いることが必要だ。
自分が存在していることを感ずるのは、ほとんど健康でない人だけだ。健康な人は、哲学者でさえも、生命とは何かを探求するよりも、生を享楽することに没頭する。それらの人たちは、自分が存在していることに驚くことはほとんどない。健康は我々の外の事物に連れてゆき、病気は我々を我々の内に連れ戻す」
この言葉以上に、臨床を始めて四〇年も経った私に大きなショックを与えた言葉はなかったのであった。
人間というものは、過ちを犯す、あるいは罪を犯すことにより初めて本当の自己発見をする。ビランの言葉の意味はそれと同じように、人生の中での重大な気づきなのである。
まさに人間は健やかである間は、それを当然と考えて、健康の進化、ありがたさを本当に感じることができず、ただただ仕事や家庭のことに追われて毎日毎日を一途に過ごしてきた人には、病人の経験がないので、健康のありがたさについては全く気づかず、感謝の気持ちもなく、毎日の生活に流されて生きているのである。
病気にかかった人間は初めて自我に立ち返り、今まで外のことばかりに気を奪われていて、自分の中の心の問題や恵まれた生を与えられていた、この健康のありがたさについてはまるで、念頭にはなかったのである。
「健康は我々を我々の外の事物に連れてゆき、病気は我々を我々の中に連れ出す」というビランの言葉を私は今読者の皆さんに贈りたいと思う。