平成19年1月 第2260号(1月24日)
■六巡目の年男の弁
生まれた年が亥年だから、厳密に言えば今年は七回目の亥年と言うべきかもしれない。まあ、それにしても、よく生きてきたものである。昔なら、古来稀なる歳を過ぎているが、今では高齢者とは七五歳以上を言うらしいから、まだ私は老人予備軍らしい。
昭和十年、鳥取市で六人兄弟の次男に生まれ、終戦が小学校の四年生であったから、ゲートルを巻き、奉安殿の前で「歩調とれ!」「最敬礼」をやった年代である。分列行進から手りゅう弾投げ、避難壕掘り、塩田づくりまで経験した…と言っても、わかる人は少ないだろう。
終戦後、軍国主義教育の鬼のような教師が、民主主義を教え出した。児童は飛行機の絵柄のついた文鎮を強制的に捨てさせられ、教科書に墨を塗ったが、教師も器用に転進した。それをしっかり見てきたから、私たちの年代は、次の世代のように、イデオロギーなどを心底から信じることはなかった。
幸か不幸か、子沢山の父親が、長年PTA会長をさせられたから、家は学校の教師の若衆宿であった。酒も、マージャンも、教師間の恋愛話も、わが家で繰り広げられた。おかげで教師は聖職者である以前に、極めて人間臭い存在であることを、なんの矛盾もなく、受け入れられた。
六年生の時、新任の男の先生が赴任してきた。はじめて子どもと一緒に遊んでくれた先生であった。いや、二年生の時の若い女の先生も、休み時間に一緒に走りまわって遊んでくれたが、秋の鳥取大震災で亡くなられたから、それが初めてのようなものであった。
この先生の宿直の時には、女の子まで夜になると学校に遊びに行った。何を勉強したか、まったく記憶はないが、皆の成績が上がった。私もそれまで、兄に比較されてダメな子の扱いだったのに「やればできるじゃないか」となった。不思議に、戦時中に影でささやかれたイジメもエコヒイキもなかった。
この時、初めて将来の夢を書かされた。何と書いたか不覚にも記憶がない。ただ、早く亡くなってしまった女の子が「医者志望」と書いたので、ビックリした記憶がある。私は、「君は大学に行って研究者になれ」と先生に言われて、そんな仕事があるのかと、腑に落ちなかったのを覚えている。
結局、さまざまな事情からサラリーマンになり、どういう間違いからか、国立大学の文系社会人教官第一号になり、転じて今の大学に移り、その再建を引き受けてしまった。人間、思うようにはならないものである。だが、やはり恐るべきは、場から受ける影響である。特に、初等、中等教育段階での教師との出会いの影響は大きい。
私には、今の教育が、理屈を教え込む、記憶させる教育に傾いているように思えてならない。たしかに昔も教育勅語を暗記させられ、今でも覚えてはいるが、納得させる教育もあった。理屈を言うなと身体で覚えさせたうえで、諄々と諭し、考えさせる手法も取られた。まさしく教師であるより教諭であった。
芦屋大学は、平成十九年度から「教育学部」を「臨床教育学部」と「経営教育学部」の二学部制にする。臨床教育とは、昭和三十年前後にあった「子どもに寄り添い、慰め、励まし、その弱点を自力で乗り越えさせる教育」を現代に復活させようというものである。また、芦屋大学の伝統は、産業界の経営者二世教育であったので、これを現代的に「経営教育学」として再編成しようとしているのである。
いずれも、子どもと一緒に遊んでやれる先生を育成することであり、顧客や従業員を含む、まわりの人々に好かれ、信頼されるような経営者二世や産業人を育てることが目標である。これらの発想は、大きく変わった社会のありようの中で、私自身が出会ったことを感謝している人々、なかんずく先生たちに身体で教えられたこと、動機づけられたことに根ざしている。
問題は、こうした私自身の個人的発想を、大学の構成員である教職員に、理論化し、顕在化した形として共有してもらえるかどうかである。そのためには、共感してもらえるような具体的な方法論として整理し、提示していく必要があると考えている。
あわせて、多くの学校現場で教職員を悩ませている発達障害、なかでも研究と教育が遅れているアスペルガー障害について、彼らのもつ障害をカバーする教育、訓練法を研究、開発して、これを広めることで、親や学校現場を少しでも手助けしたいと考えている。
私は、存在理由のない人間はいないと確信しているが、大学自体は社会的に存在価値が示されなければ、存在する理由はないと考えている。したがって、今年も存在価値のある大学づくりを目指していくつもりである。「じいさんご苦労。後は任せてくれ」という次世代が早く出てきてくれることを切に祈りながら、七回目の亥年を過ごすつもりである。