アルカディア学報
アメリカの教養教育―私高研・研究セミナーから
去る10月21日、私学高等教育研究所では「アメリカ社会における教養教育の理念」と題して、カリフォルニア大学バークレイ校名誉教授シェルダン・ロスブラット博士講演(通訳:吉田文研究員)による研究セミナーが開かれた。博士はイギリスの教育・文化史を専門とされ、英米の教養教育論の研究者として名高い。その歴史的手法を用いた精緻な分析の詳細については、著書『教養教育の系譜―アメリカ高等教育にみる専門主義との葛藤』(吉田・杉谷訳、玉川大学出版部、1999年)を参照願いたいが、今回はヨーロッパとの比較のもとにアメリカの教養教育の現状や将来の展望まで含めたお話をうかがうことができた。
本稿では、日本の教養教育にとっても示唆に富むその講演と議論の概要を報告したい。
ロスブラット博士によれば、「よく教育された人々(well-educated people)」という理念は、人間として何を知るべきかを問題とし、古来より専門職業教育や職業(準備)教育と対置されつつ、どの国にもみられるものであったという。ところが、19世紀以降、ドイツを中心とした西欧諸国では、大学で「専門分化された(specialized)」知識が重視されるようになり、教養教育はしだいに幅広い知識を教授する形態をとって高校の役割と化していった。そのようななか、西洋においてはアメリカが唯一、この教養教育という「妄念(obsession)」にとりつかれてきたといえる。その要因は次の3点に集約される。
第1に、ヨーロッパに比べてアメリカでは高校の質が低いため、カレッジが教養教育を引き受けざるをえなかったという経緯がある。
第2は、アメリカが世界初の民主主義を追求した国であり、その民主主義社会の担い手たる市民を育成するうえで教養教育が必要とされたことが挙げられる。
そして第3には、ヨーロッパでは各国の歴史や文化に裏打ちされた固有の教養教育が成立したのにひきかえ、多種多様な文化を背景とした移民から構成されるアメリカでは、いかにアメリカ人としてのアイデンティティを確立させるかが重要な課題となった。そのためにも教養教育の存在を軽視することができなかったのである。
しかし、とりわけ第3の点において、アメリカは苦渋の道を歩むことになる。というのも、ヨーロッパでは高校段階で共通の内容を共通の方法で学ぶシステムが整っていたが、アメリカでは宗教や民族的な多様性から、共通の内容として何が最もよいかの合意を得ることが非常に困難であったからである。
さらに、多様な科目を提供する大学の科目選択制と高校段階で教養教育を行えない事情とがあいまって、今日に至るまでアメリカで教養教育が求められる背景には、先の3つの要因が働いてきた。
こうして各大学では教養教育に関する実験が繰り返されてきたが、一般に大規模な研究大学よりも小規模な私立大学のほうが熱心であった。小規模大学の教育環境がオックスブリッジ風の少人数での共同生活や小規模クラスでのセミナー方式などに適しているということもある。
一例を挙げれば、アナポリスとサンタフェにキャンパスをもつセント・ジョンズ・カレッジでは、西欧の著名な古典を学習するグレート・ブックス方式により、全学生に共通の必修カリキュラムを課す。これは同大学が小規模で、かつ専門分野別の教員組織をもたないという独特の組織体制であるがゆえに成功している例である。
最後に博士は、日本の現状と将来を暗に示唆するかのように、先の3つの要因、中等教育の質の低下、民主主義社会における市民の養成、移民の増大といった要因から、これまで高度な専門教育を行っていたヨーロッパの大学までもが教養教育を重視するようになっていると言葉を結んだ。そしてその後の議論のなかでは、教養教育がかつてのように一握りのエリートを対象としたものではなく、多数の学生のための教育となる必要を述べた。しかし同時に、そうしたマス高等教育においては、商業化された文化が優先されるあまり、いかなる人間が教養をもつかといった共通の価値意識を見出すのが困難になるとも指摘した。それゆえ、たとえ日本がアメリカほどの多元社会にはならなくとも、早晩、同様の問題を抱えることになるだろうというのが博士の見解である。
議論のうち、アメリカの教養教育の動向に関する博士の回答にもふれておく。
第1は、教養教育の内容の共通性についてである。知識が増大し価値観が多様化した現代においては、グレート・ブックス方式ではもはや文献リストも膨大となりすぎ、すべてを教えることは事実上不可能となっている。すべての知識を教えられない以上、そこには何を共通の知として選択するか、論争の火種が絶えることはない。しかし、最近では特定の知識内容よりも、むしろ文章作成・口頭表現力、数理的能力、批判的思考力といったものが教養教育の共通要素とみなされ、知識内容の習得自体に重きがおかれない傾向にある。また、その一環として、「カリキュラムを通じた文章作成(writing across the curriculum)」と称した改革、すなわちあらゆる科目にわたって文章を書くことも近年注目されている。
第2は、教養教育の組織体制の問題である。日本と同様に、アメリカの教員の間でも専門主義志向は根強い。例えば、先の文章作成といった教養教育の要素も自己の専門内では実施しているものの、他の科目に関しては責任をもたない教員が多くみられ、研究大学ではそうした傾向が支配的となっている。既述のように、セント・ジョンズ・カレッジが成功したのも、専門分野別の教員組織をもたないことが大きく影響しており、教員組織の問題はカリキュラムと密接に関係していることがうかがえる。また、教養教育と専門職業教育が制度上別個な状態に対しても、両者を統合しようという動きがみられるそうである。コロンビア大学では、人生への準備教育である前者と職業への準備教育である後者が、個人の人生において本来結びつくものと考え、小さなセンターに医学、哲学、宗教学などの教員が集まり、新たなカリキュラムの統合形態を構築しようと試みている。
第3は、転学の際の学習レベルのガイダンスである。これについて博士は、19世紀に誕生した転学システムはたしかにアメリカで普及しているものの、ガイダンスの機能は決して十分ではないと答えた。各大学固有の科目履修システムのもとでは、他大学での学修を厳密に位置づけるのはやはり困難であり、4年間にわたる統合された教育を確保できないとの批判も多い。実際、有力私立大学ではこうした転学は受け入れず、4年一貫の教育を行うことを前提としているとのことである。
近年、日本でも教養教育重視の気運が高まるなか、学生の学力や学習意欲の低下ともかかわって、大学生に何をどのように教えるべきかという課題が重くのしかかっている。しかしすでにみてきたように、高等教育機会の拡大がもたらす多様化の現実と、それを補完するための教育内容の共通化・標準化に対する要請は常にアンビバレントな緊張関係をともなうものである。
教養教育のモデルとして語られがちなアメリカだが、その背後には長きにわたり論争が絶えることはなかった。仮にアメリカに成功モデルを見出しうるとすれば、それは理念や伝統といった美しい言葉で彩られるほど甘いものではなく、博士いわく「妄念」とでもいうべく、アメリカ社会が直面する課題と必死に格闘してきた末に築き上げてきたものではないだろうか。