アルカディア学報
私立大学の使命と存立
―オルテガの大学論に基づく再考―
はじめに
日本の高等教育、特に私立大学は、18歳人口の激減という構造的な危機を迎えている。2025年現在、私立大学の約半数が収容定員割れの状態にあり、経営難による撤退や統廃合が現実味を帯びている。しかし、18歳人口という需要の縮小は、大学経営の悪化よりもさらに本質的な問題を内包している。
2005年の「我が国の高等教育の将来像(答申)」では、時代状況に対する根本的な見通しを「21世紀は『知識基盤社会』となる」としている。この知識基盤社会に対して絶えず新しい知識を生産し、伝達・供給し続ける源泉である大学が連鎖的に消滅していくことは、すなわち日本における「知」の拠点の空洞化を意味する。
2025年の「我が国の「知の総和」向上の未来像~高等教育システムの再構築~(答申)」で述べられている経営資源の最適化や規模の適性化、アクセスの確保といった行政的あるいは技術的方策の偏重は、大学の存在理由を見失ったまま、単なる数合わせのための存続となる危険性を孕んでいるのではないだろうか。
そこで、大学のあり方を根本から考え直すために、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットが約100年前の1930年に著した『大学の使命(Mision de la Universidad)』を、社会と大学知との関係という点に着目して紐解いてみた。
1.オルテガが提唱した「大衆のための大学」
オルテガは、一握りのエリートが「研究を通じて教育を受ける」という19世紀のベルリン大学から始まった「フンボルト理念」に対して、根本的な批判を展開した。オルテガの大学論は、大学の対象が少数エリートから平均的な能力の学生(大衆)へと移行したという認識に立ち、大学の使命を①教養教育(一般教育)、②専門職教育(職業教育)、③科学研究と研究者養成、の三点とした。
ただし、オルテガの想定する職業教育は医者や裁判官のような高度な専門職であり、文字どおりの意味での「大衆のため大学」とはなっていない。オルテガは、三つの中で最も重要なのは「教養(文化)の伝達」だとしている。ここでの教養は古典ではなく、人間がその時代を生き抜くために不可欠な、世界に対する統合的な解釈のことである。また、オルテガは学生の学習能力には限界がある(教育における経済の原理)とし、教育内容を「学生が実際に学びうる範囲」まで絞り込み、かつ「現代を生きるために不可欠なもの」へと精選すべきと説いている。この認識は今日、ますます重要になっている。
2.現代の教養としてのメタ職業知
オルテガは大衆社会の成立と、そこでの大学の社会的使命を明確に規定した。オルテガが予見した通り、学問的な「研究」は大学院などの専門的な場に移り、学部教育の一つの中心課題は「職業教育」としての側面を強めている。日本の大学進学率は5割を超え、大学の大衆化はオルテガの時代よりも遥かに進んでいる。
しかし、オルテガの議論の前提を私たちはそのまま受け入れることはできない。
教育対象としての大衆と大学の関わりを巡る今日の状況は、ある意味でオルテガの認識とは逆である。一つは、大学論の出発点はもはや大学ではなく、大衆にあるということである。すなわち、大衆は大学に何を求めているのか、という需要の視点から出発する必要がある。もう一つは、現代の大衆が必要としている知は、オルテガが構想したような多様な職業知の統一ではなく、あらゆる職業知の方法的前提となる、いわば「メタ職業知」ではないだろうか。「メタ職業知」とは専門的なスキルを学ぶだけでなく、激しく変化する多様な現実を分析する方法としての知で、次のような要素から構成されると考える。論理・抽象化・コミュニケーションの基盤であるこの三要素は、予測困難な環境で自律的に学び、判断し、行動するための力となる。
①哲学(多様と変化の意味を問う思考)
②数学(複雑性を記述・モデル化する技能)
③語学(異文化へのアクセスと視野の拡張)
そして、大衆化した大学においては、オルテガが批判したフンボルトの理念「研究と教育の一致」を実現することは困難である。しかし、フンボルトが理念の実践のために重視した「ゼミナール」や「研究室」という学び方は、むしろ現代において有効に機能する可能性がある。一方的に知識を教わるのではなく、少人数のグループで特定の課題に対して問いを立て、仮説を検証し、批判的な討論を繰り返すゼミナールの形式は、まさに変化の激しい現代社会を生き抜くための「メタ職業知」を鍛える実践の場となる。
3.オルテガ的視点からみた大学改革の現状
現在、多くの私立大学が進めている改革、例えば学部の改組やDX(デジタルトランスフォーメーション)の推進、国際化や産官学連携は、多くの場合、対症療法に留まっているのではないだろうか。オルテガ的視点から見れば、これらの改革が空転する主たる原因は次の三点に集約できる。
①手段の目的化
志願者数や就職率は本来、「大学の使命」を果たした結果として後から付いてくる数値である。しかし、18歳人口の減少という脅威に怯えるあまり、数値の維持そのものが目的化している。オルテガは、大学が科学研究(手段)に没頭して文化の伝達(目的)を忘れることを批判したが、現代の日本においては、経営指標(手段)が教育の本質(目的)を凌駕しているのではないか。
②大衆化と質の低下の混同
学習者の多様化は必ずしも水準の低下を意味しないが、大学側が「学生のレベルに合わせる」という名目のもと、知的負荷を下げてしまっていることである。オルテガは、学生が学びうる量には限界がある(教育における経済の原理)と述べたが、それは教える内容を薄めることではなく、周辺の枝葉を切り捨て、核心的なものだけを残すということを意味している。
③ニーズの読み違え
今日の大学では、即時的な技能の習得がより一層重視されるようになった。「社会が求めている人材」を、大学はあまりに表層的に捉えているのではないだろうか。ITスキルや語学力は、あくまでも道具に過ぎない。オルテガが説いた「文化(教養)」とは、その時代の嵐の中で溺れずに泳ぎ切る、「主体的に生きるための文化」である。VUCAの時代において求められているのは、個別のスキルではなく、断片的な情報を統合して自らの判断軸を構築する力である。
おわりに
18歳人口の減少は私立大学にとって避けられない厳しい現実ではある。しかし、それは同時に「どのような人間を育てるか」という根源的な問いに立ち返る契機でもある。もし、補助金のために不本意に維持していることがあれば、それを整理し、建学の精神に基づき、大学が「これだけは譲れない」とする知の核心部分にリソースを集中する。オルテガが述べた「教育の簡素化」こそが教員の疲弊を防ぎ、教育の質を高める方法ではないだろうか。
オルテガの大学論は100年の時を超えて、大学が再び社会の知的基盤として機能するためのひとつの指針を示している。大学が「量」から「質」へと基盤を移し社会と関わるとき、その存在は新たな意義を獲得するはずである。
【参考文献】オルテガ・イ・ガセット,J.著、井上正訳(1996)『大学の使命』玉川大学出版部
