アルカディア学報
物価高と入学料について
~物価高騰対策と入学料通知への所感~
日本国政府は骨太の方針において、日本経済全体で年1%程度の「実質賃金上昇」を掲げているが、企業による賃上げ努力がなされていても実質賃金はインフレ率から計算してマイナス1%を超えているとの報道がなされている。大手企業においては2年連続で5%を超える賃上げ水準となっているが、それは大手企業が自社商品に対する価格転嫁を行ったことによって売上もまた増加したことが反映されているにすぎない。
これに対して実質中小企業に区分される学校法人における価格転嫁の方法は、入学料と授業料の値上げ以外に存在しないのが現状である。よく「運営が大変だったら授業料を値上げすればいいのでは?」のようなコメントが見られるが、光熱水費や食料品などの生活に直結するものはいとも簡単に「値上げという不利益変更」をカスタマーに対して行うことが出来るが、学校における入学料・授業料値上げという行為がどれほど難しいことであるかが世間では全くといっていいほど認知されていない証拠である。入学料・授業料の値上げを学期中(年度内)に行うことはおよそ不可能であり、よしんば値上げを決断したとしてもそれが反映されるのは翌年(まだ翌年の募集要項を発表していない場合のみ)、もしくは翌々年の4月入学生からのみになり、しかも原則的に在学生に対する授業料の値上げ(すなわち「不利益変更」)は出来ない。
また、国による高等教育の修学支援制度という存在が値上げを更に難しくしている。住民税非課税世帯に対する授業料等減免の上限額は、私立大学においては入学金約26万円及び授業料年額約70万円に設定されているが、これは令和2年の制度開始以来一切値上げをされていない。大学における光熱水費や什器備品等の整備費用は年々上昇しているにもかかわらず、授業料等減免の年額は物価上昇を全く反映しておらず、据え置かれている影響で特に地方私立大学においては都市部の大規模大学に比べて学修支援制度を利用している学生の割合が高いため、授業料を年額約70万円程度から値上げすることが叶わないのが実情である。ちなみに総務省統計局が発表している日本経済の令和2(2020)年を100とした場合の令和7年9月における消費者物価指数は112・1と1割を超える上昇率となっており、学修支援制度の減免額の上限も物価上昇に伴うスライド調整がなされて然るべきであろう。
近年財務省は文部科学省の予算要求に対して一部私立大学の授業内容が「義務教育レベル」であるといった難癖をつけるなどしており、自身が高等教育の中でも特にエリート教育を受けて来られた崇高なご身分であるお方サマには分からないようであるが、「教育は国家百年の大計」という言葉が指すように教育を蔑ろにする国家はやがて衰退するのみである。
物価高騰とともに昨今話題に挙げられるのが入学料にまつわる話である。当たり前であるが、私立大学の収入の大半は学納金収入によるものである。先述のように授業料の値上げがおいそれとは出来ない現状において、令和7年6月26日付の文部科学省高等教育局私学部長通知には最高裁判所判決に反すると捉えられるような内容が記載されるというおよそ信じられないことが起きたことは読者の皆様の記憶に新しいことであろう。小生は法学部出身ではないが、常識で考えるだけでも既に確定した最高裁判例を覆すには再びの最高裁判決、もしくはそれを無効化する法案の整備が必要であると思われる。その最高裁判例を学校法人に対する所轄庁の通知によって覆すことが可能になれば、三権分立を憲法でうたっている法治国家として失格であるといわざるをえない。この通知を発出するに至った経緯の詳細は省略するが、端的に言えば「子どもの貧困対策推進議員連盟」なる名称の超党派議連が文部科学省に圧力をかけて無理やり出させたものである。行政府だけでなく立法府(国会議員)までもが三権分立を無視して司法府の独立性を阻害しようとするだけでも国会議員としての資質が問われ、日本国民として強く非難するものでもある。
そもそも最高裁の判例によると学校の入学料は「学生が大学に入学し得る地位の取得の対価」であり、いわゆるキャンセル不可のホテルや航空機のキャンセル料と同等に捉えられるべき要素の強いものである。その入学金を返還せよという言い掛かりをつけることは、ホテルや航空機をキャンセル出来ない運賃で複数予約してどちらかをキャンセルする行為においてキャンセル料を返還せよとホテルや航空会社に要求するものと同等の行為である。このような行為を行えば「モンスターカスタマーによるカスハラ」と社会的に呼ばれることは必至であり、道徳的にも甚だ非難される行為であることは論を俟たない。文部科学省はこのような行為が議連及び一部の学生・保護者が訴えているような「二重払い」ではなく、単なる不道徳行為であることを広く周知すべきであり、このような通知を出すことは学校という「教育」をする現場の理念をも否定するものであると言わざるを得ない。また、通知に「経済的に困難な学生」とあるが、このような学生には国の修学支援制度によって通常の私立大学であれば入学料と授業料の全額程度がカバーされているのが現実であり、本当に困っているのは「入学料と授業料を満額払っている中間層」の学生である。どうせならこのような学生の入学料を減免する、もしくはこの層の学生に対する返還不要の奨学金支給のようなより現実に即した政策を考えて欲しいものである。
加えて、この通知に従った大学において入学辞退が相次いだ場合、入学料収入の減少に加えて定員充足率の悪化に伴う補助金収入の減額まで危惧される。入学料を払わずに入学し得る地位(すなわち合格)を保持出来るとなれば、3月31日ぎりぎりまで上位大学を受け続けることが可能になり、都市部の大規模大学に集中することは誰でも予想がつくことである。これは特に定員充足率ぎりぎりで管理に苦慮している地方私立大学においては存続の危機に直結するものである。様々な批判を受けたからなのか、10月になってようやく「『私立大学における入学料に係る学生の負担軽減等について』の考え方について」というページが掲載されたが、12問ある質問のほぼ全てが実際に大学から寄せられたとは思えないような想定質問であるだけではなく、回答も12問中7問が「考えられます」、3問が「お願いするものです/します」で終わるというおよそQ&Aとしては何も答えていないに等しいものであった。小生の授業の期末試験で学生がこのような回答をしたら確実に不可をつけるであろう内容の薄さであり、回答に苦慮していることが伺える。もちろん文部科学省がこの件の対応に困っていることは理解できるが、「それとこれとは話が全く別」でもある。文部行政を司る省庁として議連からの謂れのない強圧に対する砦の役目を果たすべきであり、その解決策を私立大学側に丸投げするのはいかがなものだろうか。
今後の私立大学の対応策としては、通知文の1番として記載された「入学料の額や納付時期の趣旨や考え方について、(中略)理解を得られるよう、積極的に説明すること」である。
多くの私立大学では入学前教育、プレイスメントテスト、新入生オリエンテーションなど入学前から様々な取り組みを入学予定学生に対して実施していると思われるので、「本学の入学料はこれらの対価です」ときっぱり言えるようにしておく、もしくはそのような内容のコメントを予め発出することがモンスタークレーマーに対する防衛策になると考えられる。今年度は各大学で内部統制システムの整備をされた(はずである)が、そちらに盛り込むのもリスク管理として考えられる対応で、各大学の工夫に期待したい。
