アルカディア学報
アメリカの私立カレッジの嚆矢:(その1)
ハーバード設立
1636年北米英領植民地に、キリスト教会衆派聖職者によってハーバード・カレッジが設立された。現在ハーバードは様々な教育研究指標において、ランキング・トップを誇る私立大学である。しかし設立当初は、私立と公立両者の性格を持つ曖昧な機関であった。
マサチューセッツ植民地議会が、カレッジ理事会に設立認可であるチャーターを発行し、学長も議会が任命した。理事会には聖職者の他、植民地総督や議会関係者が加わった。監督権は理事会ではなく議会が有し、議会はカレッジ憲法であるチャーターの変更権もあるとされた。実際にカレッジの同意なしに、チャーター変更を行ったこともある。
設立資金は議会が用意し、運営費はチャールズ川の渡し船税から充当された。議会は財政責任を持つと自ら考え、学長を不祥事で解任し、カレッジが一時閉鎖された後も財政支援を続けた。このような経緯から世の歴史家は、ハーバードは国家―教会立(state―church)機関としている(植民地であるので、国家の特定も難しいが)。また中にはハーバードを、公立機関として設立されたと断定する歴史家もいる(Herbst)。
ハーバードがマサチューセッツで、唯一チャーターを得たカレッジであることも、公立とする根拠に挙げられる。アメリカ独立後同州でアマーストやウイリアムズ・カレッジの設立まで、ハーバードは一世紀半にわたって、カレッジ教育の供給独占を享受することができた。学長や教員は会衆派聖職者が任命されたが、議会の宗教的寛容精神に沿って、他宗派学生も入学できた。このようにハーバードには、植民地議会やその後の州政府議会の権限と責任が強く、歴史家のいうように、一宗派の私立カレッジではないであろう。
当初ハーバードは、チャールズタウンに設立された。その後町の名前をケンブリッジとした。聖職者で寄付者ジョン・ハーバードも、英国ケンブリッジ大学出身であることから、ハーバードは同大学を模したとされる。しかしハーバードの学則やカリキュラムは、ケンブリッジの中のエマニュエル・カレッジと類似しているという。エマニュエルは、ジョン・ハーバードの母校(Alma Mater)でもある。
イングランドでは、ユニバーシティの傘下に、私的な慈善(eleemosynary)法人のいくつかのカレッジが集う。カレッジは教育を行い、学生とチューターが生活する場所である。公益法人であるユニバーシティは、いわばホールディングス・カンパニーであり、それぞれのカレッジの学生に学位授与を行う。
学位授与
ハーバードはカレッジのコピーだとしたら、なぜ学位を授与する機関だったのであろうか?ハーバードを母国のケンブリッジのサテライト・キャンパスとして扱い、学位は後にケンブリッジ大学が授与する、という一つの推測も可能である。しかし実際にはハーバードは、1642年9人の学生に早々と学位を授与している。つまりハーバードも自身を私的法人ではなく、公益法人として見ていたようである。
中世ヨーロッパ時代から学位は、いかなるところでも教える資格を保証した証明書である。その学位授与機関に与えられるチャーターには、ヒエラルキーがある。最上位はローマ法王が発行したパパル・ブル(Papal Bull)といわれるものである。これを有した機関で修得した学位は、どのカソリック諸国でも通用する普遍性をもった。次には皇帝や国王のインペリアルまたは、ロイヤル・チャーターである。その学位は、当該帝国や王国でのみ有効であった。そしてその他の地域や、植民地チャーターが最下位に位置する。学位は限定的である。
ハーバード・カレッジは聖職者、法律家、医者の養成を目的として設立された。これらはエッセンシャル・プロフェッションといってもよく、植民地でも移民人口増加に伴って、需要があった。そのためかハーバードでは曖昧なチャーターであっても、設立後すぐに学位を授与していた。しかしそれらはハーバードだけか、またはマサチューセッツ内だけで、通用する学位であったはずである。不思議なことに、ハーバードの学位取得者の一人が、ヨーロッパでさらに上級学位を授与されているので、ハーバードの学位も正式な学位として認められていたようである。
植民地で二番目に設立されたウイリアム・アンド・メアリー・カレッジは、母国の国王ウイリアム三世および女王メアリー二世からチャーター授与された。チャーター上にある普遍的学問の場(place of universal study)が、ユニバーシティとして解釈された。それ故カレッジという名称を持ちながら、当初から学位授与が認められた。キリスト教監督派聖職者が設立したが、議会も公益法人として扱った。ハーバードの植民地チャーターよりも、より公式なものであり、学位に関してもハーバードの曖昧さを、いくらかは避けることができた。同校は現在もヴァージニア州の公立機関である。
ガバナンス
植民地で最初に設立されたハーバードには、ほかにも不確実性があった。理事会にチャーターを発行した議会自体も、母国からチャーターを授与された法人であった。よってハーバードのチャーターは、チャーター上位法人から下位法人に与えられた法的に怪しいものであった。おまけに17世紀末マサチューセッツ植民地は、貿易上の利益を母国に上納しないという理由で、チャーターを取り消されてしまう。当然ハーバードのチャーターも無効であり、その間カレッジはチャーターなしで運営され、学位を授与していたことになる。
議会から最初にチャーターを得たのは、法人格のない理事会であった。理事会は自メンバーを選出できず永続性がなく、財産権も持たない準法人といえるものであった。1650年この外部者からなる準法人理事会とは別に、学長と教員ほかによる法人が設置された。この法人も議会からチャーターを得、教育と管理運営の権限と責任を持つことになった。以降ハーバードの統治は、理事会と法人の二院制がとられることになった。この二つの統治体には、人事をはじめとして、しばしばコンフリクトが生じた。二番目に設立されたウイリアム・アンド・メアリー・カレッジも当初は、この二院制を敷いていた。現在は一つの理事会が統制している。
さらにガバナンスをめぐっては、議会も関与していた。イングランドでは、学位授与権は私的法人であるカレッジにはなく、公益法人のユニバーシティにあった。国王や議会は公益法人であれば、機関の同意なしにチャーターを廃止変更できた。チャーター発行者である植民地議会も、チャーターを変更することもできたであろう。
カレッジは議会から独立していないので、植民地議会とカレッジにコンフリクトがあった場合は、裁判所ではなく議会で解決された。またそれ以前に総督他議会関係者が、理事会に職務メンバーとして加わっていたので、議会の統制は強いものであった。このようにハーバードは公益法人として見られ、公立機関としての性格が強いものであった。
このカレッジが私立機関として独立性を持つと認められるのは、次回で解説する19世紀初めの連邦最高裁判所でのダートマス判決まで待たなければならない。以上での詳しい内容と参考文献等については、拙著近刊『(仮)カレッジの流儀とユニバーシティへの進化アメリカの経験』(東信堂)を参照されたい。
(つづく)