アルカディア学報
大人の失敗のツケを、若者に押し付ける国?
―授業料“値上げ”問題に寄せて―
1.授業料"値上げ"問題の急展開
高等教育に関連する予算の総額は減っていないのに、なぜ教育研究活動が苦しいのか。国立大学からみるとその理由は単純で、中身が競争的資金に化けているからである。獲得できるかどうかもわからない、大型の競争的資金の申請に多くのコストがかかる。なんとか獲得できても、教育研究を直接担う教職員の人件費としては使えない。使えたとしても5~10年の任期付きになる。とにかく、紐付きではない安定財源が必要だ。――やや乱暴なまとめ方かもしれないが、こうした認識は、国立大学の関係者間ではおおよそ一致するだろう。
国立大学にとって、運営費交付金以外の数少ない安定財源のひとつが、授業料である(注①)。今年の3月以降、慶應義塾大学の伊藤公平塾長による「国立大学の学納金を150万円に」提言を皮切りとして、東京大学の授業料値上げ問題が浮上し、さらに国立大学協会が国立大学の財務状況の悪化について「もう限界です」と訴える異例の声明を発表したことで、さまざまな議論が市井で重ねられることになった。
国立大学の立場からすると、もともと厳しいなかで努力して運営を続けてきたところに、円安という外部要因に追い打ちをかけられ、ダブルパンチを見舞われた格好になる。実はいくつかの国立大学では、2019年頃からすでに値上げが行われていたわけだが、自身の勉強不足もあってか、そのころに今のように広い議論が展開されたという記憶があまりない。東京大学の影響力の大きさを改めて実感している。
この問題に関連して、去る8月28日に、広島大学高等教育研究開発センターが、有識者を招いた公開研究会「東京大学・国立大学授業料値上げ問題を考える座談会」を開催した。とくに、当事者のひとりとして紹介・登壇された中村高康先生(東京大学)の話題提供からは、現場のリアリティが感じられた。すでに一部をのぞいて資料と録画が同センターのウェブサイトで公開されており、あわせてパブリックコメントも募集されている。関心がおありであればぜひご確認いただければと思う。
2.大学教育の外部効果
さまざまな議論の過程で、「選抜性の低い私立大学の私学助成を減らせばよい」「大学教育に関係ない人が税金で授業料・学費を負担する必要はない」といった意見も、しばしばみかけた。しかし、大学教育の価値は、進学する本人だけでなく、進学しない者も含めた社会全体に便益をもたらす点にある。もっともわかりやすい例は、大学へ進学しないよりもしたほうが、平均的に生涯年収が高くなる傾向にあるため、結果として将来の国家税収の増加が期待できるという経済的価値である(注②)。このように、進学しない者も含めた社会全体にも便益がもたらされることを、外部効果(もしくは正の外部性)という。よって、大学教育の受益者は社会全体であり、進学する本人だけを受益者とみなす意見は、理論的には誤りである。よく考えると、"値上げ"という、何らかの商品を購入するかのような消費者主義的な言葉が使われること自体、大学教育の受益者が進学する本人に限定されると考えられている現実を反映している。
進学する本人だけが受益者とみなされがちなことには、やむをえない事情もある。
日本では、高等教育資金の約半分が家計から拠出されており、この割合はOECDの平均(20%)よりもはるかに高いからである(OECD2024:291)。費用の多くを家計(本人もしくはその親)が負担しているのだから、自身の便益のために進学するのだと考えられてもしかたがない。ただしこの背後には、大学教育の外部効果の存在が、"単に知られていないだけ"という可能性が潜在している。実際、大学教育には税収の増加という社会的利益があるという情報を提示すると、そうでない場合に比べて、費用の社会負担への支持率が高まるという調査結果もある(小川[2016]2017)。
「私学助成を減らして、運営費交付金にまわすべき」「公平な競争のために、国立大学の学費を上げるべき」のように、財源が限られているという状況を与件とし、限られた財源をどう配分するかというスタンスに身を置いてしまうと、設置者間の無用の分断を招きかねない。運営費交付金も私学助成も、どちらも増やせばよい。少なくとも今のところ、外部効果は、設置者や選抜性に関係なく期待できると考えられるからだ。いつのまにかそのような選択は、はじめから牧歌的で、非現実的だとみなされている。
3.選びたい社会・未来
国立大学のなかで、東京大学は資金がもっとも潤沢である(はず)。もし、その東京大学が授業料を値上げすれば、それ以上に苦しんできた多くの国立大学が追随する可能性が高い。それら国立大学の値上げを根拠としつつ、学費をあげる私立大学もあるだろう。そのような授業料・学費の値上げスパイラルが生じることによって、大学進学をあきらめたり、通っている大学を退学したりせざるをえなくなる学生も出てくるに違いない。
大学進学機会が限られており、一種の特権のようにあつかわれかねない社会と、年齢や立場、社会階層などに関係なく、誰にでも開かれている社会とでは、後者のほうがいっそう豊かである。少なくとも私はそう思う。授業料・学費が値上げされると、前者に近づいていきはしないかという懸念をもつ。しかし、これは最終的には人びとの価値判断の問題であり、何を選択するかによって、どちらにも変わりうる未来でもある。
授業料・学費の値上げをする前に、競争的資金を安定財源に戻す可能性が検討されることは、もう決してないのだろうか。繰り返すが、運営費交付金も私学助成も、どちらも増やせばよい。それができないなら(注③)、まずは公的資金の競争性を低めればよい。少なくとも、そういう主張を積極的にしてもよい。これまでそうしてこずに、法人化以降の大学改革が「失敗」(田中ほか 2024)に終わったのは、私も含めた大人の責任であるというほかない。ニッポンは、大人の失敗のツケを、若者に押し付ける国だったのか。だとすると、生まれる子どもが毎年減り続けるのも道理かもしれない。
[注]
注①学納金のことを、国立大学では「授業料」、私立大学では「学費」と呼ぶことが多い。私立大学では、「授業料」に加えて、授業に直接関係しない施設設備費、同窓会費、実習費などを含んで「学費」としてあつかい、一括して徴収しているためだと思われる。本稿ではこの通例に沿って用語を使いわけている。なお、国立大学は文部科学省令によって「授業料」が規定されている一方、私立大学では各学校法人に学納金納入に関する規程がある。
注②ただし、アメリカのデータを使って、学歴の差(大卒―高卒)よりも専門分野間の差のほうが大きいことを指摘する研究もある(Kim et.al 2015)。日本のデータを使った研究には島(2021)などもあり、今後の蓄積が期待される。
注③この原稿を執筆している9月中旬に、文部科学省が運営費交付金の増額要求(今年度比3%増)をしたというニュースが入ってきた。「3%では足りない」という批判もあるかもしれないが、要求しなければ始まらないので、個人的には支持したい。
[文献]
Kim,C.,Tamborini,C.R.,&Sakamoto,A.,2015,Field of Study in College and Lifetime Earnings in the United States.Sociology of Education 88,320-39.
OECD,2024,Education at a Glance 2024:OECD Indicators,Paris
:OECD Publishing.
小川和孝,[2016]2017,「「大学教育の社会的利益」に反応するのは誰か――情報提示による変化の内実」矢野眞和・濱中淳子・小川和孝『教育劣位社会――教育費をめぐる世論の社会学』岩波書店.116-38.
島一則,2021,「大学ランク・学部別の大学教育投資収益率についての実証的研究――大学教育投資の失敗の可能性に着目して」『名古屋高等教育研究』21:167-83.
田中秀明・大森不二雄・杉本和弘・大場淳、2024,『高等教育改革の政治経済学――なぜ日本の改革は成功しないのか』明石書店.