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アルカディア学報

No.778

Chat GPTの功罪
破壊者か? それとも変革者か?

客員研究員  土持ゲーリー法一氏(京都情報大学院大学副学長)

はじめに

 生成AIによるChat GPTについて耳にしない日はないと言っていいほど、日常生活の隅々まで浸透している。Chat GPTの功罪を問うには、まだ日が浅いかも知れない。しかし、そのような悠長なこと言っていられないほど、緊迫した状況にある。 
 筆者は、ウィル・ダグラス・ヘブン氏の論文「Chat GPTは破壊者か?それとも変革者か?揺れる教育現場」
(Chat GPT is going to change education , not destroy it , by Will Douglas Heaven)(https://www.technologyreview.jp/s/304856/chatgpt-is-going-to-change-education-not-destroy-it/)に触発された。とくに、冒頭の「Chat GPTの登場は、教育現場に混乱を引き起こしている。米国では悪用を懸念し、校内での利用を禁止する学校もあるが、教育をより良いものにしていくために有効な存在だと考える関係者も多い」との指摘に注目している。そこで、本稿ではChat GPTの「有効性」に焦点を当てて考察することにする。

Chat GPTに対する批判

 2022年11月下旬、オープンAIがChat GPTを公開すると、わずか数日のうちに大きな反響が世界中を駆け巡った。ビジネス界や企業の受け止め方と違って、保守的な考えの強い教育現場では戸惑いの声が聞かれた。文科省の対応も「風見鶏」的で、諸外国の反応を見ながらというもので、学校はもとより、児童・生徒は混乱して誰を信じ、何を拠り所にすれば良いか路頭に迷っている。
 画一的な日本の学校現場へのChat GPTの来襲は、あたかも「津波」に襲われたかのようなパニックに陥った。筆者は、論稿「Chat GPTとどのように付き合うか~いま、大学教育の存在意義が問われている~」(『教育学術新聞』2023年9月13日)と題して寄稿した。
 当初は、「Chat GPTは問いに対してすばやく簡単に答えを出せるかもしれませんが、批判的思考力や問題解決能力といった、学問的な成功や、生涯にわたる成功に不可欠な能力を育むことはできません」という類の批判的なものが大半を占めた。そこでは、未だにChat GPTの「真価」が認知されておらず、断片的な評価に過ぎなかった。たとえば、「『学生が学んだことをテストする』という行為は教育の根幹の1つだが、Chat GPTはまるでそのあり方を壊してしまうかのように思われた」に象徴されるように、学校教育の根幹を揺るがす憂慮すべき事態だと受け止められた。これでは、試験だけが学校教育のすべてであるかのような誤解を与え、大きな「混乱」の引き金となった。
 著者は、「Chat GPTのようなチャットボットが子どもたちへの教育にどのような意味をもたらすのか、見直しを始めている数多くの教師や教育者から話を聞いた。今や多くの教師たちが、Chat GPTは不正行為を働く者のための夢の機械などではなく、教育をより良いものにしていくために有効な存在ではないかと考え始めている」と、むしろ肯定的に捉えている。

Chat GPTは有益か無益か

 現在のChat GPTについての議論は、学習者視点に立って考えられているのだろうか。「大人」の都合に偏っていないだろうか。著者は、「チャットボットの禁止は無益などころか、逆効果にさえなりかねない」と、その動向を疑問視し、「私たちは若者、学習者を、そう遠くないうちにやってくる未来の世界に向けて準備させるために、何が必要なのかを問うべきです」と前向きな議論を展開し、「これまでも、学校に革命を起こすとされるテクノロジーの力は大げさに喧伝されてきたし、(中略)AIはいずれにせよ、授業に採り入れられることになるだろう。私たちがそれを正しく理解することが極めて重要だ」との著者の提言に大いに賛同する。

「次世代型高等教育論」と題する授業

 筆者は、京都情報大学院大学で同僚の孫宜蒙氏と共同で新たな授業に臨んでいる。表題の授業は、学生との対話を中心にした斬新な試みである。字数の制約で詳細については割愛するが、履修学生は「模擬授業」のシラバスを作成し、その一端を授業で発表するというものである。中国からの留学生が多いので、授業ではPCの持ち込みを許可し、Chat GPTを活用して質疑応答を促している。
 秋学期の最後の授業では、生成系AIを活用した学生の内定獲得件数が多いことが孫氏の下記にデータから紹介された。具体的には、直近1年間(2022年6月~2023年7月)に転職活動を行い転職した人の応募数、書類選考通過数、内定獲得数などを見ると、応募数、書類選考通過数、内定獲得数のいずれも生成AI活用者の方が多かった。とくに、内定獲得数の平均は4.6件(生成AI非活用者との差+2.8件)で、生成AI非活用者より2.5倍以上多い。また、生成AI活用者の内定獲得率は27.1%に対し、生成AI非活用者は12.0%で、2倍以上のギャップが出ている。最近の学生の動向を、次のデータからも裏づけることができる。

Chat GPT時代の大学教育はどうあるべきか

 Chat GPTの来襲は、幕末の「黒船来航」に匹敵すると思われる。これまでの「学校神話」が音を立てて崩れ落ちる様を肌で感じる読者は少なくないはずである。生成AIによるChat GPTに対応するには、新たな学校教育のあり方が必要である。あたかも、「新しい酒は新しい革袋に盛れ」の諺ではないが、新たな学校教育には、新たな教員の役割が求められる。これまでのような画一的な教授法では、能力が「埋没」されかねない。
 筆者は、Chat GPTに「対峙」することを奨励しているのではない。これは時代の趨勢であって不可避であると考えている。そうであるならば、Chat GPTを積極的に受容して、「共存共栄」する道を探るべきである。

Chat GPTが「学校神話」を崩す

 日本の伝統的な教育は、「儒教」精神にもとづくもので、そこでは「教える人」と「学ぶ人」の上下関係が明確であった。「先生」という漢字がそれを象徴している。Chat GPT時代は、「誰が生徒か先生か」の童謡ではないが、両者が混在している。そのような混沌とした現代社会において、何をどのように信じれば良いのか模索が続いている。
 「学校神話」とは、学校で学ぶことのすべて正しいとする「金科玉条」的な発想である。裏を返せば、学校教育は「正しいこと」しか教えない「純粋培養」という名の過保護に陥っている。このような子どもたちがグローバル社会に出て、サバイブできるだろうか。世の中には、好ましくないことも多々あり、その善悪を瞬時に判断する能力が求められる。現代社会の悩みは、学校教育と現実社会が隔離しているところにある。

大学教育とは「疑う」ことを学ぶ

 Chat GPTが批判される理由の一つとして、正解が一つでないことに対する違和感からくるのではないだろうか。Chat GPTが世に出はじめたころ、巷では「嘘の垂れ流し」と揶揄するものもいた。
 たとえば、同じプロンプトを与えても異なる結果を出力するところから正解がいくつも出され、そのような揶揄につながったと思われる。しかし、冷静に考えれば、答えが一つということの方が、不自然であることは、社会に出れば誰もが気づくことである。
 筆者は、大学は社会への架け橋となり、「実験の場」でなければならないと考えている。なぜなら、大学こそが「疑う」ことの重要さを学べるところであると考えるからである。「疑う」ということばのニュアンスは、誤解を招きやすい。これは、客観的な目を養うということである。そのためには複眼的な洞察により、物事を批判的に見ることのできる資質を養う必要がある。
 具体的には、複数の新聞の論説に目を通して、何が客観的なのか自分で判断する力を日ごろから鍛えることであると、筆者の戦後日本の高等教育改革研究のメンターであったGHQ/CI&E教育課長マーク・T・オア氏から教わったことがある。

おわりに

 アメリカの大学院で研究をはじめたころ、良く「定説を覆せ」ということばを耳にした。儒教圏の日本では聞けない表現である。日本では、逆に、「定説」や「原理」の基礎を学ぶことが優先されている。考えて見れば、「定説を覆す」からこそ次の発見につながるのであり、それを学ぶだけでは未来にはつながらない。
 「定説を覆せ」は、「疑い」を抱けと同義語である考えている。これは、Chat GPTの対応においても不可欠である。前述のように、Chat GPTが有益かどうかは、それをどのように「駆使」できるかにかかっている。Chat GPTが、どれだけ優れたツールであろうとも、所詮、人間が開発したAIに過ぎない。Chat GPTからより良い正解を引き出すには、徹底した「質問」攻めで、自らが求める解答を引き出すことしかない。これを「プロンプト」と呼んでいる。
 Chat GPT時代の学校教育で必要なことは、「プロンプト」を抱かせる好奇心を育てること、そしてそれを引き出せる教員(ファシリテータ)を育てることである。
 たとえば、STEM→STEAMの「A」がパラダイム転換を促したように、Chat GPTにもリベラルアーツ教育の考えが必要であり、それを実践につなげるのが、「プロンプト(質問)」ということになる。