アルカディア学報
DXブームに惑わされるな
MinDX(マインド・トランスフォーメーション)の提唱
はじめに
最近は、DXブームと言っても過言ではない。その反面、DXのデジタルのDはわかるが、トランスフォーメーションのXがわからずに悩んでいる人があまりにも多い。これはDXブームに乗り遅れまいとする企業の実態を浮き彫りにした証である。
DX JAPAN代表植野大輔氏の「日本企業に必要なのはデジタル人材ではなく、X人材だ!トランスフォーメーション人材養成講座=01」「DXブームに惑わされるな。日本に必要なのは、DではなくXだ」のネット記事に興味を引かれた。
なぜなら、多くの日本人はDのデジタルには注目するが、Xのトランスフォーメーションには無頓着であるからである。
このXを醸成するには、リベラルアーツマインドが不可欠である。DXは単なる知識の習得ではなく、内面から変革を促す「好奇心(Curiosity)」のようなものが必要である。「灯台下暗し」という比喩があるように、DXのアイデアは遠い洋上の彼方にあるのではなく、案外、身近なところに存在する。
筆者は、DXを促すリベラルアーツマインドとなる「マインド・トランスフォーメーション(MinDX)」を提唱する。これは、Mind Transformationの略で、デジタルだけではない、働き方を変えるXがあるのではないかとの考えから生まれた。事実、最近のGXという考えがそうである。これはGreen Transformationの略称で、経済産業省が提唱する脱炭素社会に向けた取り組みである。GXはカーボンニュートラル実現のため、地球温暖化による気候変動や異常気象の加速を抑えることを目的としている。
最近、「DXマインド講座」が開講されているが、どうすれば柔軟なDXマインドが生まれるのかを知りたいところである。Xとはクロスのことで、横断歩道を英語で
Crosswalkと呼んでいる。すなわち、Xを理解するには「横断」的なものの考え方を重視するリベラルアーツの発想が必要である。
このマインドは、「ソフトスキル」に近いもので、効果的な対話、オープンマインドな姿勢、チームワーク、発想力、問題解決力、批判的思考力、適応力、情報整理、学習意欲などなど、リベラルアーツと同じ資質が求められる。しかし、筆者の考えるものとは異なる。
なぜなら、それらは「スキル」に過ぎないからである。リベラルアーツの精神は、内面から培われるものでなければならない。ソフトスキルだけでは、「一過性」のブームに終わってしまう。
DXは、2004年、ウメオ大学(スウェーデン)のエリック・ストルターマン教授によって提唱された概念で、「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させること」の考えを参考に、筆者はM
inDXの概念を「LA(リベラルアーツ)の浸透が、人々の思考を柔軟にし、より深い学びへと変革させること」と定義づける。
DXは柔軟な発想から生まれる
DXの発想は、イノベーションにもつながる。これは、オーストリアの経済学者のヨーゼフ・シュンペーターが提唱した概念で、これまで組み合わせたことがなかった要素を組み合わせた「新結合」によって起こる現象のことである。しかし、何でも結合すれば良いわけではない。なぜなら、1×1×1=1では、いつまでも1のままである。それを3とか2の異なる要素に変えれば、まったく違う結果が生まれる。それが「新結合」である。「三人寄れば文殊の知恵」の「文殊」とは、知恵をつかさどる菩薩のことで、凡人でも三人集まって議論すれば、文殊に劣らぬほどのよい知恵が生まれるとの諺である。
文理融合の柔軟な考え
文理融合の重要性が指摘されながら、一方では、理系の大学を増やす計画を推進するなど、ちぐはぐな政策が横行し、フィロソフィーのなさを露呈している。そこには、なぜ、文理融合が必要なのかの哲学が欠落している。拙著『戦後日本の大学の近未来~外圧の過去・混迷する現状・つかみ取る未来』(東信堂、2022年)で明らかにしているように、戦後日本の大学改革は、旧制大学における専門領域を深めることに重点が置かれ過ぎたきらいがあった。
これに対して、『米国教育使節団報告書』は、「日本の高等教育機関のカリキュラムについて、(中略)大部分は一般教育に対する機会があまりに少なく、専門化があまりにも早く、あまりにも狭く行なわれ、そして、職業教育にあまりに力をいれすぎているということである。自由な考え方へのバックグラウンドと、職業的訓練の下地としてのより良い基礎を与えるために、もっと広い人文主義的態度が養われなければならない」と人文主義的態度の涵養を勧告している。この「人文主義的態度」が、筆者が提唱する「MinDX」のことである。
専門教育が限られた領域を深めることにあるのに対して、リベラルアーツ教育はそのような偏りを抑制するだけでなく、縦断から横断への発想の転換を促した。しかしながら、日本社会では「横断」という用語が正しく理解されることなく、逆に、「縦断」的な学びの方が深く高度だと誤解している。
STEMからSTEAMへの柔軟性
諸外国では、早くからSTEAMの重要性が指摘され、STEMからSTEAMへの転換が行われた。これは、STEMの考えにアート(A)が加わったことに端を発したものである。
しかしながら、STEMにアート的な要素が突然に加わったのではない。もともとSTEMの中に内在していたと見るべきである。そこではSTEMを広く捉え、Science、Technology、Engineering、Mathematics以外に、心理学、経済学、社会学、政治学のような人文社会科学も含んでいるとの考えにもとづいたものである。(詳細は、拙稿「文理融合を促すリベラルアーツ教育~STEMからSTEAMへ」『教育学術新聞』(2022年4月20日)アルカディア学報721を参照)したがって、「文理融合」という表現が正しい。もし、STEMに新たにアート的な要素が加わったのであれば、それは「文理合体」である。「合体」と「融合」では意味合いが違う。後者は、原形を留めるところに意義がある。
すなわち、理系と「合体」するのではなく、それをも「包含」するところに新たなものが生まれるとするアメリカの民主的な考えにもとづくものである。日本では、未だにSTEAMの重要性が認識されず、それは「スティーム」に過ぎないと揶揄する人もいる。一方で、STEAM教育を見直す動きも見られる。たとえば、山口学芸大学・三池秀敏学長は、「STEAM教育こそが現代のリベラルアーツである」と述べている(『教育学術新聞』2023年8月9日を参照)。
AIと機械学習
拙稿「リベラルアーツ教育は『想像』と『創造』の豊かさを育む」(『教育学術新聞』アルカディア学報752,2023年7月19日を参照)では、映画『ペイパーチェイス』で描かれているPhotographic Memoryについて言及した。これは「写真的な記憶」を意味する表現で、見たこと、読んだこと、聞いたことのすべてがインプットされるというもので、現在に置き換えれば、AIの機械学習にほかならない。しかし、この表現は「1973年」のハーバード大学ロースクールでの授業の一幕である。キングスフィールド教授は、このような表面的な学びを「ダメ出し(ネガティブフィードバック)」した。そして、ハーバード大学ロースクールの学びは、記憶することではなく、「自分の考え」を主張するところにあると諭して、「問答」の重要性を周知徹底した。
昨今、Chat GPTが茶の間で話題になっていることを考えると、AIが人間を凌駕すると考えられた2045年よりも早まるのではないかとの危機感がある。そのための具体的な対策は講じられていない。というよりも、どのように対処すれば良いのか皆目見当がつかず、路頭に迷っているというのが的を射ているかも知れない。そのような混沌とした状況下で、同映画は示唆に富むヒントを与えている。それは、「問答」による手法である。これはソクラテスメソッドと呼ばれるもので、正解のない問いに対して、自らの最適解を模索して自己主張を繰り返させる論法である。
おわりに
2022年3月、経済産業省「DXリテラシー標準」(ver.1.0)の中で、「マインド・スタンス」と題して、「社会変化の中で新たな価値を生み出すために必要な意識・姿勢・行動」と定義づけている。これは企業側から見た「スタンス」の取り方で、筆者が意図するものとは齟齬がある。筆者の考えは、「ソフトスキル」や「マインド・スタンス」あるいは「マインドセット」のような表面的なものでなく、ものの考えの根底にあるマインドを育む資質を涵養することにある。これは、本来、文部科学省が高等教育において主張すべきカリキュラムであるにも関わらず、後手に回り、企業に振り回されている実態を浮き彫りにしているとの印象を払拭できない。