アルカディア学報
私立大学の自律と主体性
事務職員に期待すること
はじめに
大学や短大の学生募集停止のニュースが相次ぎ、鬱々とした気分が続いていた時、ふと某書店が出している小冊子の一文に目が留まった。「幸せな家族はどれもみな似ているが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」。トルストイの『アンナ・カレーニナ』(望月哲男訳、2008、光文社)の書き出しの一文である。そうだ、大学の経営も同じかもしれないと一瞬思ったが、いや、大学の場合は正反対だと思い直した。「経営がうまくいっていない不幸な大学はどれもみな似ているが、幸せな大学にはそれぞれのうまくやる形がある」といえるのではないだろうか。
過去の失敗から「こうなれば(これをやれば)ダメになる(失敗する)」という原因は、明確に特定することができる。その一方で、求められたことには漏れなく対応し、良いと言われることもできる限りすべてやっているのに、これという経営改善の糸口を見つけられないでいる真面目で一所懸命な大学がある。今や危ない大学の慣用句のごとく使われている「小規模」、「地方」、「単科」、「女子大」のリスクは確かに高いが、そうでなければ安泰というわけにはいかない。不確実性に支配された大学業界では頼るものはなく、将来の成功は誰も保証できない。大学は自らの判断と行動で、それぞれの幸せの形を見つけるしかないのだろう。
大学の自律と主体性
自律という語は、文脈によって極めて多義的に用いられている。大学は誕生以来、学問の自由に必要不可欠なものとして自律(自治)を求めてきた。一方、1990年代以降の文科省の審議会答申等が大学に対して求めてきた自律は、周囲から期待された役割や機能を果たし、組織の目標を達成する機能体組織としての存在である。私立大学に対しては、生き残りをかけた経営努力という自立の意味も含まれている。同じ語であっても、大学が求める自律と政府や社会が求める自律は、まったく別ものなのだ。
改めて自律という語を辞書で繰ってみると、「自分の行為を主体的に規制すること。外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること」とある(広辞苑第7版(2018))。自律するには主体的でなければならないのだ。同じく広辞苑によれば、主体的とは「ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのではなく、自己の純粋な立場において行うさま」とある。大学が置かれている状況に照らし合わせてみるとどうだろう。
最大の収入源である入学者を確実に確保したり、卒業時の出口を保証したりするには、市場の意向に沿わざるを得ない。社会の発展に直接的に寄与し、社会の期待に応える教育改革は、質保証の視点からも強く求められている。教育の現場では、学生のレベルやニーズに合わせるための授業改善やカリキュラム改革に暇がない。近年の政府主導の大学改革政策や補助金政策は、大学の自律をサポートするというよりも、むしろマイクロ・コントロールによって自律を阻害しているという指摘もある。現状の大学の思考や行動は「主体的」というより、他者から求められたことや既に決められていること、やらなければならないとされていることに対して自ら進んで行動する「自主的」なもの、さらに言えば「受動的」なものになっているといえよう。
組織の自律に不可欠な個人の自律
大学の内部に目を移してみる。政府や社会に対して自律した経営行動をとっている大学が、組織的にも自律しているかというと必ずしもそうとはいえない。例えば、理事長の強力なリーダーシップのもとに独自の挑戦的な経営を行う大学は、対外的な経営行動としては自律性を発揮している。しかし、教員や職員には何の権限も責任も与えられず、ただ理事長の言いなりになっているだけだとしたら、その大学は自律した組織だといえるだろうか。組織の最適な形は、常に一つとは限らない。状況によっては、理念やビジョンの具現化よりも経済的な成果を求めることもあるだろう。より大きな目的達成のために、他の何かを犠牲にしなければいけない時もあるだろう。しかし、特定の人物による独裁や寡頭支配の状態は、短期的には問題ないかもしれないが、組織の長期的成長や持続可能性という観点からすれば、やはり問題がある。
自律した組織を維持するためには、構成員一人ひとりの自律が必要である。なかでも組織目標の達成を目指す機能体として、大学がそれぞれの能力を最大限に活かすには管理運営の中心を担う事務職員の自律が重要である。
大学職員が主体的に働くには
事務職員における自律とは何かを具体的に定義することは難しいが、一言でいうと「一から考え直す」という行動になる。規則や常識、思い込み、さらには自身の経験も一旦、脇に置き、一から考え直して仕事(何かをつくり出したり、成し遂げるための行動)を決められることである。これは事務職員にとって簡単なことではない。なぜなら、前例や常識、制度や規則は事務職員の業務の基盤となっており、それがリスクへの対策や業務の効率化を支えているからである。事務職員の日常業務は、既に在るものに対してWhy(なぜ、そうなったのか)や、How(どうやって解決するのか)を考え、行動している。しかし、自律に不可欠な主体的であるためには、What(そもそもやっていることは何なのか、それは何をしていることになるのか)から考えなければならない。これが「一から考え直す」ということである。次の2つの条件は、働きやすい職場の条件として一般的に言われていることではあるが、主体性を引き出し高めるために必要なことである。
一つは失敗できる環境である。すべての制約を取り払い、規則や常識に囚われず行動することは、非効率で時間もかかる。失敗したり、新たなコンフリクトが生じたりする確率も高くなる。事務組織の中だけではなく、教員や学生にとっても面倒なことになる場合がある。それでも失敗は不可避なものと端から認め合う組織文化と、大学全体で個人の失敗を次に活かそうとする仕組みがあれば、失敗を恐れず働ける。
もう一つは、余裕のある働き方ができるようにすることである。「こうした方がよい」、「これをすべき」と思っていても、目の前の業務に追われて手がつけられなかったり、新たに着手した場合に増える負荷を思って踏み切れなかったりする。余裕を生み出す直接的な方法の一つは、無駄な業務や意味のない手続きを廃止することである。当初の目的は消え失せているのに、その目的を達成するために設定された組織や制度、規則や手続きはそのまま残っているようなことは、一定のタイムラグも含めて、どの組織にもある。
おわりに
大学が不幸にならないためには自律が不可欠である。しかし、自律しているからといって、必ずしも幸せになれるわけではない。むしろ予測不可能な時代においては、合理的に意思決定できない問題が増え、大学は今後ますます状況依存的にならざるを得ないだろう。それでも大学は、それぞれに合った幸せの形を自律的に求めていくしかない。その鍵は、事務職員の「一から考え直す」行動にあると期待する。