アルカディア学報
生成AIは教育機関としての大学に何を問いかけるか
コロナ禍後に広がる混乱と困惑
「コロナ禍の長いトンネルを抜けると生成AIの世界であった。」川端康成の「雪国」の冒頭を模せば、ここ1年足らずの日本も含めた世界の状況は、このように言い表せるかもしれない。
昨年11月末にOpenAI社がChatGPTのサービスを開始し、今年2月にマイクロソフト社が自社のネット検索サービスBingを通じてChatGPT 4.0をベースにしたBing Chatの提供を始めると、国内でも連日のように生成AIがインターネット上や各種メディアで取り上げられるようになったことは、まだ記憶に新しい。先取的な企業や機関が、いち早く業務においてこれらの生成AIの利用を試み始め、多くの人々が生成AIで何ができるのかを個々人の興味や関心に応じて日常的に模索する中で、新年度を迎えようとしていた我が国の教育機関における戸惑いや混乱は大きく、それはまるでコロナ禍が始まった直後、「オンライン授業にどう対応するか」に右往左往していた頃を彷彿させた。
とは言うものの、「コロナ禍における授業対応」と「教育における生成AIへの対応」は、前者が基本的には「対面授業と同等の教育を、オンライン/ハイブリッド授業によって提供するか」という目的・目標が変わらない中での代替的な応急措置であったのに対し、後者は言わば「試合中に得点方法や競技ルールの再考・変更を余儀なくされ、選手・観客・審判の誰もが先が見通せず困惑する中で現実的な即応が迫られる」という点で、性質的には大きく異なっている。換言すれば、「教育における生成AIへの対応」は、特に教育機関や教員にとって、今後の自分たちの存在意義や存続可能性を根本的に左右する舵取りが求められるような不可避的で喫緊の重要課題だと言える。
僅か数か月の短い間に生成AIを巡る激しい動きや論争が巻き起こっているのは、ChatGPTやBing Chat(ChatGPT 4.0をベースとしている)などが無料もしくは安価なごく簡単なサービスとして、誰もが日常的に簡単に利用できる形で台頭し、しかもその能力に(精度や正確さは完全とは言えないまでも)かなりの実用性が認められることが大きな要因だ。いわゆるジェネリック・スキルと呼ばれるような「汎用的な知的能力」が必要とされる知的な仕事や課題を生成AIに代替させられる(もしくは、そのように見える)ため、大学や大学院で、本来的には学生自らが習得した知識や技能を使うことが要求される課題、例えば筆記試験の解答や論文・レポート等の執筆等をAIに「代行」させることが技術的に可能になった。さらに、学生の試験解答や論文・レポート等がAIの代行によるものかどうかを、成果物だけからでは確実に判別できる方法がないことから大学界は騒然となり、ここ数か月間に日本だけでなく世界中の大学で、学生に学業における生成AIの利用を禁止するという動きが急速に広まったのは周知の通りである。
何を学ぶべきか:求められる主体的な対応
ここで思い出されるのが、今から10年以上前に京都大学入試の2次試験で数学の試験中に、インターネットのQ&Aサイトが、当時「ガラケー」と呼ばれていた多機能携帯電話を通じて利用され、当該の受験生が偽計業務妨害の容疑で逮捕された(その後、本人が深く反省しているという理由で家庭裁判所によって不処分となった)事件である。この事件で使われたQ&Aサイトは、投稿された質問に対しAIではなく他人がボランティア的に回答するというタイプのものであったが、この事件以降、入試会場でスマートフォンやスマートウォッチなどの使用がより厳しく取り締まられるようになった。教育現場における現時点でのこのような「生成AI利用禁止令」は、言うなれば、この事件での「代行解答・執筆者」が人からAIに代わっただけの問題への緊急対応であるが、大人数による多様な「代行依頼」がAIでは自動的に即時解決可能になったというインパクトは絶大である。
いずれにしても、このような「汎用的な知的能力」を大学教育やそれ以前の教育課程を通じて身に付けさせなければならない、という流れになり各大学の取組が活発になってきた矢先だけに、出鼻を挫かれかねないという危機感も少なからずあるだろう。コンピュータというテクノロジーを中心に発展してきたマルチメディア、インターネット、VR・XR(仮想現実・拡張現実)等の技術は、「いつ、どこで、誰と、どのように学ぶか」について新たな可能性を拓きながら教育を進展させてきたが、日常レベルで実用的なAIの出現と急速な普及は、これらに加えて、人間は今後「何を学ぶべきか」をより突き詰めた形で私たちに問い始めている。大学・大学院やその他学校全般が、「学ばさせる・学びを支援する」ための教育機関である以上、「どのような知識・技能をどのように学ばせるか、それをどう評価するか」を教育課程において明確にすることから逃れられない。その一方で、未開拓かつ技術そのものが今後急速に進歩し変貌するであろうAIの教育的利用を、誰もがまだ浅い経験しかない中で、行政や各教育機関・組織がトップダウンで「何が良い、何が悪い」と決めつけ、一方的な方向に進むことを強制することも極力避けるべきである。
今年7月上旬に文部科学省高等教育局は、生成AIに関して利活用が想定される場面例や留意すべき観点などを取りまとめた「大学・高専における生成AIの教学面の取扱いについて」を発表し関係諸機関に通達した。幸いなことに本文書では、AIの教育的利用をネガティブにとらえて禁止するような方向性は謳われておらず、利用方法として不適切な事例(例えば、レポートなどの成果物を生成AIのみを利用して作成すること)などが挙げられ、生成物が虚偽である可能性や機密情報や個人情報の流出・漏洩などの可能性と共に注意喚起がなされている。また、生成AIが「ブレインストーミング、論点の洗い出し、情報収集、文章校正、翻訳やプログラミングの補助などの学生による主体的な学びの補助・支援のほか、教員による教材開発や、効果的・効率的な大学事務の運営などに利活用することも考えられる」「学生がレポートなどに生成AIを利活用した場合は、適切に学修成果を評価するため、利活用した旨や生成AIの種類・個所を明記させることのほか、小テストや口述試験を併用するなど評価方法を工夫する」等のポジティブな教育的活用の可能性や対応策なども挙げられ、今後の状況変化を踏まえて指針の内容等を見直すことを含め、大学・高等専門学校等の教育機関が主体的に対応することの重要性が強調されている。
試行錯誤とベストミックスのチャンス到来
本年度前期、生成AIの教育利用が試行的に進められた日本の大学や各教育機関や学校は少なくなかっただろう。大学・学部・学科レベルで本格的な活用を開始したところも幾つかあるが、多くは組織的な注意喚起の下、授業レベルで教員と学生による試行錯誤が行われたと思われる。
筆者自身も、これまで数年間担当してきた「教育イノベーションの創発」を主題とした少人数の大学院ゼミにおいて課題解決型学習を行う中で、教員による課題作成と学生による課題解決の両面において、積極的に生成AIの活用を試みた。毎週出される課題について学生はレポート作成やプレゼンテーションを行うが、「課題に取り組むにあたって、実際に生成AIを利用した場合は、どのように利用したかを簡潔に示すこと」を常に求めたので、結果的に学生・教員間で、生成AIを使うメリットやデメリット、効果的な活用法などが共有され大変有意義であった。また、同じ課題に対して自分とAI各々が単独で取り組んだ成果物を示し、それらをメタ的に比較検討する学生もおり、ゼミ全体を通じて学生たちのエンゲージメント(没入感)も例年に比べてさらに高まった印象を受けた。このような実践事例は、国内外で多数報告され始めているが、試行錯誤を通じて良い教育実践経験・事例を共有し積み重ねることで、コロナ禍を経て鍛錬されたオンライン・ハイブリット教育と同様、生成AIも含めた教育的ICT活用のベストミックスを実践コミュニティーとして目指すことが大いに期待される。
「生成AIは、まだ大した技術ではない」というような「事なかれ」的意見も聞かれるが、1990年代半ばに一般的な普及が始まったインターネットも、当初は通信速度が遅く、文字しか使えない電子メールや静的な情報閲覧中心のウェブサイトなど、今から思えば大した技術ではないように見えた。しかし、四半世紀余りの間にインターネットがどれだけ急速に発展・進化し私たちの生活のあらゆる局面で多大な影響を与えているかを考えれば、生成AIの登場は、「一般的で多様な実用性を持ったAIが、今後急速に大きな社会的変革をもたらす時代の幕開け」を意味することに疑いの余地はない。そして、その大きな社会的変革は、職業や働き方の変容を伴って、教育機関としての大学や高等教育システム全体を大きく変容していくのだろう。
AIは紛れもなくDisruptive Technologyと呼ばれる先端的技術であり、良くも悪くも社会や個人に破壊的な影響を及ぼす。使い方を見極めながら、取り返しがつかないことにならぬように注意深く進むことが肝要ではあるが、慎重すぎて乗り出さなければ何も始まらず変わらないし、ともすれば、近年世界の高等教育の潮流に乗り遅れてきた感の大きい日本の大学界が、AIや自動翻訳ツールなどのスマート・テクノロジーを使うことで巻き返しを図れる大きなチャンスが到来しつつあるという予感すらある。
現在巻き起こっている生成AIを巡る様々な動きや議論を通じて、私たちは今の高等教育の可能性や課題について何を学ぶことができるのだろうか。「写し鏡・拡大鏡・望遠鏡」として、AIを捉えてみるのも興味深い。思い起こせば四半世紀以上前に米国で取り組んだ自らの博士研究のテーマは、「個人の学ぶ能力を拡張する認知ツール(Cognitive Tools)の開発・利用・評価」であった。AIや先端技術が、個人の学習能力だけではなく、大学や高等教育システム全体の教育能力や学習環境をどう拡張し進化させられるかは、今後の私たちの洞察と挑戦に懸かっている。