アルカディア学報
リベラルアーツ教育は「想像」と
「創造」の豊かさを育む
はじめに
筆者は、『教育学術新聞』(2023年1月11日付)の論稿「DXには発想の転換が必要~思考法の切り替えを促すリベラルアーツ教育~」と題して、「発想の転換」が必要であると述べている。思考法の切り替えを促すのがリベラルアーツ教育である。日本のDXには、2つの「ソウゾウ」が欠落している。
すなわち、「想像」と「創造」である。大学でリベラルアーツ教育を育てようと考えているが、それでは遅すぎる。それらは「高校」で培うべき資質である。
大学におけるリベラルアーツ教育とは、「疑問」を抱かせることでなければならない。そのためには、「なぜ」「どうして」と問う技術が必要になる。
ソクラテスメソッドとは
ソクラテスメソッドということばを耳にする。これは、アメリカのロースクールではじめられた授業方法で、通称ソクラテスメソッドと呼ばれる。授業では、事例研究の資料を渡され、学生は事前に読んでおく。授業がはじまると教授がランダムに学生を指名して質問し、即答を求める。学生が答えられない場合や反論がある場合は、他の学生が競って答える。教授はそれらに対して解説するのではなく、次々と質問を繰り返し、学生たちはこの過程を通して思考を整理して、結論を導き出す。
映画『ペーパーチェィス(The Paper Chase)』が問いかけるもの
ハーバード大学ロースクールの過酷な新入生の授業を描いた映画『ペーパーチェィス(The Paper Chase)』(1973年) の公開を通して、その実態が広く知られるようになった。机上の理論ではなく、『問答法』によって真実を明らかにするというのがソクラテスメソッドである。
詳細は、同映画に譲るが、チャールズ・W・キングフィールズ教授は、授業の冒頭、「今までの君たちの学習とは違って、一問一答で授業する。私の質問に君たちが答えるのだ」と宣言し、講義をしない理由は、自分で「考える」ことを学ぶためだと主張して、「一問一答を繰り返すことによって、社会を構成する人々の複雑な事実関係を分析するために必要な能力を養う!」と声高らかに薫陶している。この「一問一答形式」がソクラテスメソッド型の授業形態ということになる。
Photographic Memory(写真のような記憶)とは
映画のなかでPhotographic Memory(写真のような記憶)という表現が出てくる。面白い表現である。これは、「写真のような正確な記憶力」という意味である。すなわち、学生が与えられた指定図書を丸暗記して回答するというもので、日本では「優れた記憶力」と称賛に価するかも知れない。
ところが、ハーバードロースクールの学生(ケヴィン・ブルックス)がそのような回答をしたところ、キングスフィールド教授は、そのような丸暗記はハーバードロースクールでは通用しないと叱咤し、「写真のような記憶などというものは無意味だ。内容を分析する能力がなければ何にもならん!」と怒鳴った。
まさしく、知識一辺倒ではだめだと諭した。これは、1973年の映画である。以下が、授業風景の描写である。
ケヴィンは、ハーバードロースクールに入学するほどの秀才であったが、そこでは通用しなかった。彼は、「僕には写真のような記憶力があり、百科事典も頭に入っている。事件の内容ならすらすら言えるが―それじゃ点が取れない。」、そして「僕はどんなカクテルでも作れるんだぜ、バーテンの本を読んで全部覚えた。バーテンの試験なら通る。」と主人公(ジェームズ・T・ハート)に自慢げに話しかけるところが印象的であった。
結局、ケヴィンは自殺未遂の末、退学するというドラマである。
映画『モナリザスマイル』との類似性
この映画もハーバード大学と同じマサチューセッツ州にあり、1950年代の伝統的なウェルズリー・女子カレッジの授業をドラマ化したものである。優秀なエリート学生は、シラバスで指示された指定図書を完璧に「読破」して授業に臨み、主人公の美術史講師キャサリン・ワトソン(ジュリアロバーツ)を窮地に追い込むというシナリオである。前述のPhotographic Memoryのような記憶力が重宝されている。そこで、ワトソン講師が、シラバスに書かれていないことを逆に質問したところ、あたかも別人のように何も答えられなかった。その困惑した学生の顔が印象的である。
リベラルアーツ・カレッジの学生は「よく質問する?」
リベラルアーツ教育では、学習成果をどのように可視化するのだろうか。リベラルアーツ教育は、その多様性が特徴なので、1つの事例だけで判断することは難しい。しかし、筆者は学生が「よく質問する」ようになったかどうかも一つのバロメーターになるのではないかと考えている。
『モナリザスマイル』の映画の舞台となった、ウェルズリー・カレッジのナナール・O・コーヘンヌ学長が、日本女子大学とウェルズリー・カレッジの協定に関連して、1991年1月14日に来日したときのエピソードがある。
講演内容の詳細は、特別講演「世界のリーダーシップを育てる女子教育」(日本女子大学国際交流セミナーにおける講演記録、1991年)(日本女子大学HPより)に譲るとして、筆者が注目したのは、講演後の質疑応答の一幕である。記録には残されていないようであるが、会場の参加者から、次のような質問が出されたことを記憶している。「リベラルアーツの重要性について講演されましたが、リベラルアーツ教育を受けた学生と、そうでない学生とではどのような違いが見られますか」という趣旨のものであった。的を射た重要な質問で、誰もが知りたいところであった。
コーヘンヌ学長は、質問に対して謝辞を述べながらも、「良くわかりません」と率直に答えた。筆者は、彼女のこの率直な返答に痛く感動した。リベラルアーツ・カレッジの学長たるものがと批判されるかも知れないが、筆者が「感動」したのは、リベラルアーツは深い思想・哲学に根差すもので、一般論で答えられないと考えているからである。
学長は笑いながら、それではせっかく質問してくださった方に「不親切ですよね」と続け、「今の質問を『ウェルズリー・カレッジ』の卒業生は、他の大学の卒業生とどのように違うのかとパラフレーズしてお答えしましょう」と述べたのである。短い質疑応答の場面であったが、多くのことを学んだ。とくに、パラフレーズして自分のことばで答えるという方法である。学長によれば、ウェルズリー・カレッジの卒業生は、どの女子学生よりも、「よく質問する」と端的に、自信に満ちた回答であった。
20数年以上も経過した今でも鮮明に脳裏に刻まれている。ウェルズリー・カレッジの卒業生には、アメリカ大統領民主党代表であったヒラリー・クリントンがいたことを考えれば、コーヘンヌ学長の回答は的外れではなかった。
まとめ~旅から学ぶ
山口周『自由になるための技術リベラルアーツ』(講談社、2021年)には、「『リベラルアーツ』とは自分を縛る固定概念や無意識的な規範から自由になるための思考技術を指しています」と述べ、アート技法の重要性を繰り返し述べ、アートを「技術」と位置づけている。筆者もリベラルアーツを「固定概念」に囚われない、自由な考えを表現するアート(技法)だと考えている。
リベラルアーツを「教養」と捉えるときは、物事が「静止」した状態に陥る。動かなければ何も変わらない。山口氏は、「モーツアルトの生涯を俯瞰して改めて感じられるのが、その『旅』の多さです。(中略)『旅』と『創造性』には極めて強い関係があるからです」と「旅」が幾多の偉人を育てたことを強調している。たしかに、古今東西の歴史を顧みれば、僧侶や学者の多くが「旅」をして知見を広めたことは周知の事実である。「幕末の吉田松陰もまた、『旅』を学びの場として考え、書物による勉強は一定の年限で止めてしまい、その後はことごとく『人に会って人から学ぶ』ということを徹底した人物でした」と述べている。
三蔵法師として有名な「玄奘三蔵」は、隋の時代に中国で生まれた僧であるが、「原典を学ばなければ仏教の真義に行き着かない」と考え、国禁を犯してインドへの旅に出た。玄奘はシルクロードの厳しい道のりを経てインドに辿り着き、帰国後は持ち帰った仏典の翻訳に生涯をかけて取り組んだと言われる。(註:https://worldclub.jp/turkish/silk-road/#i-4)
日本の大学でリベラルアーツが育たない理由の1つは、「学問」という概念の理解が欠落しているからではないだろうか。
「学問」とは、「問うて学ぶ」ものでなければならない。