アルカディア学報
ノーベル賞には自然科学への
政策シフトが絶対条件か
はじめに
『読売オンライン』(2023年1月12日付)は、「理工農系『250学部の新設・転換』目指し支援、文科省が10年計画」と題して報道した。その背景には、日本の理系人材育成の停滞があり、大学で理系を専攻する学生は経済協力開発機構(OECD)平均27%より低い17%に留まり、OECD諸国が増加しているのに対し、ほとんど変わっていないとの危機感の表れである。経済産業省は、30年にはIT人材が最大79万人足りなくなると試算している。
これに先駆け、興味ある記事が、『教育学術新聞』平山一城「私大の力㉔~ノーベル賞ならず 自然科学へ政策シフト、『理系離れ』どう向き合うか」(2022年10月26日)と題する論稿があった。そこでは、「『私大文系の定員増が影響』との主張」の小見出しを掲げ、「今年のノーベル賞の自然科学3賞(生理学・医学、物理学、化学)に、日本人の受賞者はなかった。」と切り出し、「昨年は、地球温暖化を予測する先駆的な研究で、米プリンストン大の真鍋淑郎が物理学賞を受賞した。」「ただ、大学院まで日本にいた真鍋が米国に移り、受賞理由となる研究基礎を米国に置いたことが象徴するように、日本の基礎科学での研究力の低下を心配する声が広がった。」と紹介している。たしかに、基礎科学での研究力が低下しているのは事実であるが、この指摘は「矛盾」しているようにも思われる。なぜなら、基礎科学の研究力が低下しているのであれば、真鍋教授がプリンストン大学に招聘されることはなかったと思われるからである。基礎科学の研究力があったからこそではないのか。それは、自然科学分野の基礎科学の研究力が低下していることに直接的な原因があるのではなく、そこでの研究が開発につなげられなかったところに欠陥があると認識すべきであろう。
アメリカは世界中から卓越した研究者を優先的に受け入れ、研究成果を生み出す「研究環境」が整っているところも見逃せない。
「科学の進展に伴い、ノーベル賞の選考対象も変化している。昨年、真鍋が受賞した気象科学は従来、物理学賞の対象とは考えられていなかった。今年、古人類研究のスパンテ・ベーボが生理学・医学賞を受賞したのも異例であった。新しい研究分野の開拓には、これまで日本が弱いとされた分野横断的な取り組みを積極的に進め、古い枠組みにとらわれずに果敢に挑戦する姿勢が大切になる。私立大学にもチャンスはある。」と述べ、DXの可能性を示唆している。
これは、従来の分野別縦断型研究の欠陥を示唆するもので、基礎科学の研究力の低下の分析と矛盾する。分野横断型が文理融合型研究を促すもので、その原動力となるのが、リベラルアーツ教育である。短絡的に、自然科学分野を増設するだけでは解決できない。「私立大学にもチャンスはある。」は重要な指摘である。なぜなら、文系を中心とする私立大学には、国立大学にはない、柔軟な発想、多様性が備わっているからである。
ノーベル賞受賞を阻害しているのは何か
それは、自然科学へ政策をシフトすることではない。原因は、研究方法論のところにある。筆者は、アメリカと日本の大学院で学位論文をまとめた経験がある。両国の学位論文に対する考え方は、似て非なるものである。詳細は、拙著『戦後日本の大学の近未来~外圧の過去・混迷する現状・つかみ取る未来』(東信堂、2022年)で述べているが、日本の大学院が研究業績の「達成度」に審査基準を置くのに対して、アメリカの大学院(とくに、筆者のコロンビア大学ティーチャーズカレッジの場合)は、「研究方法論」に重点が置かれた。それには、明確な理由がある。それは「自律した研究者」を養成することを使命としているからである。裏を返せば、このような自律した研究者が、将来優れた研究を生み出し、運よくノーベル賞につながると考えているからである。
日米の高等教育を比較すると、アメリカの大学は初年次から「学び方を学ぶ」方法論を徹底し、大学院で「専門分野」にチャレンジさせることで研究に好奇心を持たせている。さらに、研究方法論について徹底した指導を受けることで、いつでも、どこでも研究が遂行でき、自律的学習を養成できる。
戦後日本の大学教育は、アメリカをモデルにしたはずであるが、肝心なところで齟齬がある。そのギャップは縮まるどころか広がるばかりである。その原因は、拙著でも述べているように、「論文博士」の温存が諸悪の根源である。すなわち、「論文博士」と「課程博士」の並列がそうである。「論文博士」は、論文の到達度を審査するのに対して、「課程博士」は論文に至る研究方法論を審査対象にしている。日本もアメリカと同じように課程博士があるではないかと「反論」されるかも知れない。たしかにそうである。しかし、日本には論文博士の道が「温存」されている。
新旧二つの異なる制度を両立させることは、両方ともダメにする危険性がある。法科大学院と司法試験制度の併存がそうである。
おわりに~起承転結のない文章
ノーベル賞の受賞には、最近のDX開発に似たところがある。筆者は、『教育学術新聞』(2023年1月11日付)の論稿「DXには発想の転換が必要~思考法の切り替えを促すリベラルアーツ教育~」で述べているように、ノーベル賞にも「発想の転換」が必要である。思考法の切り替えを促すのがリベラルアーツ教育であると主張している。ノーベル賞には、「ひらめき」「発想の転換」が欠かせない。
図の説明によれば、「『セレンディピティ(Serendipity)』という言葉がある。これは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力や才能を指す言葉である。たまたま何かを発見したという『現象』ではなく、そこから何かを発見する『能力』のことである。科学分野においても、例え当初の目的の実験は失敗しても、そこからひらめきを得て、まったく別の価値あるものを発見することがある。偶然の産物を得ることができるのは、柔軟な思想と、つねに前向きな好奇心、発想の転換などが必要であり、まさにセレンディピティを持った科学者であろう。論理的思考で導き出す回答には限界がある。時には偶然の発見が必要なのだ。」と述べている。
研究論文のまとめ方にも日米、あるいは英語圏との違いがある。前述の拙著から関係個所を引用する。
「アメリカにおける文章作成は、新聞と同じように『逆三角形』手法である。とくに、学術論文にはその傾向が強い。日本人にノーベル賞受賞者が少ないのは、英語が対象言語であり、欧米諸国の英語圏に比べて『不利』だというだけがその理由ではない。文章構成が、起承転結になっているからではないかと考える。澤田昭夫『論文の書き方』(講談社、1977年)には、興味深いことが書かれている。すなわち、『日本に数年間滞在して日本の物理学者が書く英語論文を直していたイギリスの物理学者レゲット氏は、日本人の論文がわかりにくいのは、ことばの問題というよりも、論旨のたて方の問題で、横道(サイドラック)がたくさんあって何が幹線(メイントラック)なのかわからないようになっているからだと述べています。これはまさに構造的思考の欠如を指摘した批評です』がそうである。筆者は、「構造的思考の欠如」とは、日本の伝統的な「起承転結」を指していると思っている。日本人がノーベル賞を多く受賞できない理由の一つがそれであるとしたら傾注に値する。澤田は、起承転結は、学術論文では具体性を欠くとして、『起承転結ではこまる』と述べている。起承転結の中でも『転』は、日本語の奥深さを醸し出すところで重要である。しかし、こと学術論文においては、逆に、『足かせ』になり、説得力を欠くことになりかねない。」(22~3頁)
柔軟な発想には、文理融合型を促すリベラルアーツ教育が不可欠である。前述の『教育学術新聞』の「新しい研究分野の開拓には、これまで日本が弱いとされた分野横断的な取り組みを積極的に進め、古い枠組みにとらわれずに果敢に挑戦する姿勢が大切になる。私立大学にもチャンスはある。」の指摘は傾注に値する。21世紀社会の発展には、私立大学の役割が欠かせない。そのことを発展のバロメーターにして再考すべきである。