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アルカディア学報

No.741

大学ファンドの衝撃
日本型教育研究の国際通用性

客員研究員 小笠原正明(北海道大学名誉教授・一般社団法人大学教育学会顧問)

 毎年、年の終わりから始めにかけては、卒業を目前にした理系の学生にとって最後の追い込みの時期である。理工系学部の建物では夜通し灯りがつき、玄関口ではあわただしく出入りする学生の姿が夜遅くまで見られる。この時期になると卒業予定者の研究の進み具合が気になって、周りの人も一緒に実験や計算の結果に一喜一憂する。日本の大学のキャンパスのいたるところで見られる風物詩のような光景である。卒業研究を経験して初めて大学生らしい勉強をしたという学生が多い。
 ところがこのような光景は、外国の大学ではまず見られない。大部分の国で卒業時期が日本の大学とズレていることもあるが、もっと大きな理由は、卒業研究あるいは卒業論文を学士の学位を与えるための条件としている大学がほとんどないことにある。研究に正式に参加するためにはまず学士の学位を取らなければならない。これは英米系の大学では常識である。
 日本の大学は、第二次大戦後は米国の大学をモデルとしているが、このような違いが生じた背景にはそれなりの事情がある。ここでは深く詮索はしないが、それでも私が大学生だった1960年代には、最終学年の時間割表にも一定数の科目が配置され、毎日ではないが授業にはよく出た。それが、いつの頃からか、おそらくインターネットが出現してからのことだろうが、ほとんどの大学で最終学年の時間割から重要な科目が消え、3年後期までには卒論を残して卒業に必要な単位のすべてが取れるようになった。コースワークに関する限り日本の4年制大学は実質3年制である。最後の1年は、大学院に進学する学生が大多数のところではフルタイムの卒業研究に、それ以外の大学では「フルタイムの就活」のために使われるようになった。いずれにしても教育課程の原則は、学生からも教員からも無視されている。卒業研究の単位数など4から8単位で、時間にすればフルタイム1年分の5分の1程度に過ぎないのだから、本来、卒業に必要な単位は4年間に均等に配置されなければならないのだが。
 これが日本だけの習慣であることは、大学の教員であれば誰でも知っている。しかし、新制大学発足から70年、インターネットの普及から30年も経って、これが当たり前となり、誰もおかしいとは思わなくなった。教員は、学生が卒業前に研究を体験し、その過程で教員や先輩の大学院学生から個人的指導を受けることが大事だと考えている。手はかかるが、いずれは自分の研究に役立つと思えば、それほど苦にはならない。学生の方は、物心ついてから授業や試験に追い回されていたので、大学4年にして初めて解放感を味わう。
 ちなみに、ここまでは卒業研究については「習慣」という言葉を使い、「制度」とは書かなかった。大学設置基準の卒業研究に関する規定には、「必要な学修等を考慮して、単位数を定めることができる」とあるだけで、あとはすべて学部学科の判断にまかされているからである。
 2000年代後半から、予算の削減でこの研究室教育が難しくなっているという声があちこちから上がるようになった。論文生産数においも、韓国など中進国と呼ばれていた国が急速に追い上げて来るのに対して、日本の研究室のアウトカムは2002年をピークに減少しはじめ、2017年には英国の有名な科学雑誌Nature編集部は日本は先進国グループから脱落しつつあると警告した。2018年以降はほとんど凋落といってもよい状態に陥っている。
 その原因は重層的で、慎重な分析が必要である。政府予算が少ないことには疑問の余地はない。政府は2004年に法人化された国立大学系の大学の運営交付金を毎年1%ずつ削減してきたからである。ただし、その分を競争的資金として上乗せしてきたので、大学関係の予算は総額としては変わっていない。それにも関わらずなぜ急速な地盤沈下が収まらないのか?
 まず第1に、2000年代の補助金政策の何かがおかしいと考えるのが普通だろう。特定の大学に対する重点配分は、むしろ事態を悪化させたのではないか?
 第2に、日本の大学の教育研究システムのどこかに構造的欠陥があるかも知れないと考える必要がある。冒頭に理系の学生・教員の年中行事について触れたのはそのためである。このような日本の大学の「醇風美俗」がいよいよ国際通用性を失ってきたのではないか、と私などは疑っている。
 すでに前から、博士課程とポスドク中心の欧米の研究室に対して、せいぜいが修士課程の学生とかなりの数の学部の学生を含む日本の研究室では太刀打ちできないと言われていた。その原因は、学士課程における研究室配属の習慣にまで遡ることができる。さらに、最悪の場合として、コースワークの質保証を怠ってきたツケが回ってきたかのかも知れない。大学3年生の時間割表に半期で10科目もの重要な専門科目を配置せざるを得ないようでは、単位の実質化も授業外学習時間の確保もあったものではない。このような日本の教育研究システムに原因があるとすれば、よほど腰を据えてかからなければ退勢の挽回はできない。
 来年度から実施されるという「大学ファンド」の政策は、このような日本の教育研究システムに対して爆弾のような役割を果たすだろう。10兆円ともいわれる大学ファンドの収益を数校の「国際卓越研究大学」にどんと注入すれば問題は解決する、と偽政者が考えているとしたら安易にすぎる。
 政府の説明によれば、世界トップクラスの待遇、研究設備、サポート体制等を準備するのだそうだが、日本の教育研究の構造的問題をそのままにして、お金だけを投入すれば現場は混乱するだけだ。「大学ファンド」の基本はビジネスモデルである。大学の研究は「事業」とされ、年率3%の事業拡大を義務づけられている。このままでは学部学生といえども事業の「利潤追及」のために動員せざるを得ない。高い授業料を払いながら、なぜファンドの利益を出すために働かなければならないか?これは学生にとっては当然の疑問だろう。日本の研究室は、教育を前提として成り立っている、脆弱で前近代的要素を多分に含む組織である。大学の研究成果から利潤を得ることは大いに推奨されるべきだが、逆にファンドの利潤のために研究するとなると組織の整合性がとれず、学生にとっても意味がまるで違ってくる。これまでのように無条件で研究に動員することは、論理的にも倫理的にも許されない。
 大学ファンドは国際卓越研究大学に選ばれる数校の問題にすぎないと考える人もいるが、これも間違っている。卒業研究が習慣であって制度ではないことに示されているように、理系の研究室の教育・運営は、前例や経験知に依るところが大きい。その大枠を決めるのは「フラッグシップ(旗艦)大学」と呼ばれる日本の伝統的な大学群である。卓越大学と目されているこれらの大学は、これまでの日本型教育研究システムを抜本的に変えることになるだろうが、その在り方は、細部に至るまで他の大学に影響を与えるはずだ。
 教育研究のコアである研究室の運営に関わるすべての教職員は、大学ファンドを巡ってこれから起こることに注目して欲しい。その動向は日本の大学の将来を左右する重要なものになるだろう。