アルカディア学報
大学評価の新段階―第10回公開研究会の議論から
国立大学の置かれた環境の激変とその私立大学への波及によって、大学評価の結果に基づいた資金配分が重視されていく制度が現実のものとなりつつある。こうした変化に対して能動的に対応するために、私立大学は何をなすべきであろうか。
私学高等教育研究所は、平素より私立大学の特性に合わせた大学評価方式の開発について研究を進めており、去る3月27日には「私学における大学評価の新段階-米国調査団最新事情と日本の評価体制」と題して公開研究会を開催した。本研究会ではアメリカでのアクレディテーション実地評価団への参加体験が報告され、それを踏まえた議論がなされた。個別の報告についてはすでに本欄で紹介されているので、本稿では質疑における発言を中心に、注目される論点をいくつか紹介することにしたい。
喜多村和之研究所主幹の報告は、総論的にアメリカにおけるアクレディテーションの歴史と現状について解説したものであった。その報告では、アクレディテーションの目的が、提供している教育の品質の保持と改善への刺激を与えることにあることが強調された。とりわけ大学の質を維持するための権限を、中央政府や大学外部の組織・制度に委譲することは回避すべきであり、自らの質を自らの手で維持していくという自律性を維持するべきことが強調された。
また実際の評価者や実地評価団については、その構成員の選定にあたっても大学側との調整が行われ、評価者自体も評価の対象になることが各報告者によって説明されている。評価団内部でも相互評価が行われている点も注目に値する。こうした評価者に対する評価制度はアメリカに限らず、イギリスの学校評価制度などでも制度化されている。これは評価者に対する被評価側の不満が根強いことと、評価者自身やその判断自体の正当性への担保が制度化されていることを示している。教育を評価する制度を導入している国では、その評価結果が信頼に足るものと認識されるようにするための試みが随所になされているのである。
さて、喜多村主幹の報告の中では、次の点が外部評価としてのアクレディテーションの重要な論点となると思われる。第1に、アクレディテーションはあくまで教育に対する評価であり、それは教育の改善が計画的に実施されなければならないことを背景としているという指摘である。第2に、評価結果は各大学によって設定されている教育の目的に則して、合否のみが決定されるに過ぎない点である。特に数量的指標などは他のランキング制度によって採用されているものであって避けられるべきものと認識されており、アクレディテーションはあくまで望ましい教育が提供されているか否かという、一定の水準を超えているかどうかのみが問われている点が重ねて強調されている。
鋤柄光明研究員の報告では、実際の実地評価ではインスペクション(視学)であるというよりピア・レビュー(研究者としての内部評価・検証)といった側面が強いこと、評価団の構成員は訪問実施前だけでなく実施中にも莫大な資料を読み込み、自らの担当箇所については具体的に理解し、疑問点を整理し、最終的には簡潔な報告書の作成が求められている点が紹介された。
羽田積男研究員の報告では、訪問前に大学側で作成されるセルフ・スタディに関する説明がなされ、また実地評価全体を通じて、評価者側も被評価者側も莫大な仕事量をマニュアル化された詳細な準備で対応していること、評価団側も受け入れる大学側も、質疑応答に関して徹底した準備がなされている点が強調された。
以上のような報告を踏まえて、特に日米の現状を踏まえて活発な質疑が行われた。ここでは4点に絞って紹介したい。
第1に、日本の現状を踏まえて、学生による授業評価と外部評価との関係について質問が出されたのに対して、喜多村主幹からは、授業評価は大学を構成する第1者としての教職員に対する第2者としての学生による評価と考えられ、さらに第1者と第2者の関係全般を客観的に評価するのが第3者評価(外部評価)ではないかとの説明がなされた。
第2に、アクレディテーションの意義や特に政府との関係に関する質疑の中で、喜多村主幹は、アメリカのアクレディテーション過程について、各大学のミッションをカタログ(要覧)に明記し、そのミッションを果たすためのカリキュラムを編成し、そのカリキュラムが実際に機能しているかどうかを大学自身が確認し(セルフ・スタディ)、その確認が正確か否かを最終的に判断するものとして最後にアクレディテーションを位置付けた。この過程のいずれかで改善すべき点が発見された場合、そこを外部(政府)から指摘される前に、自助努力によって克服するのが私立大学の自律性を示すのではないか。1990年代を通じて多くの大学でカリキュラム改革が進められてきたことは周知の事実であるが、その改革が大学によって検証され、さらにその検証の正しさが確認されることは今後の課題として残されているように思われる。
第3に、アクレディテーションが教育に関する評価だとすれば、研究評価は軽視される傾向にあるのかという質問に対しては、喜多村主幹からは教育は元来評価しがたい部分を内包しており、特別な評価システムを外部に求めることが必要である旨説明された。
第4に、私立大学と国家との関係について興味深い意見交換がなされたので紹介したい。複数の質問者によって、高等教育政策や大学評価の現状を踏まえて、アクレディテーションの可能性に関心が寄せられた。それに対して、喜多村主幹からは、特に政府主導の評価制度は、国立大学中心の格付けになりがちで、さらに資源配分に活用される可能性があるのに対して、大学側の自発的な組織によるアクレディテーションは資源配分に関わらない点で大きく異なる点が指摘された。とりわけ日本の制度が参考にしていると思われる英国の大学評価(特に研究評価)制度が研究資金の分配に直接関係している点を踏まえると、どのような評価・資金配分制度が望ましいのか、より具体的な議論が求められているといえるだろう。
なおこの問題に関連して、鋤柄研究員は、従来私立大学は文部省主導の下でチャーター(設置認可)制度によって保護されてきたが、もはや10パーセント程度の補助金で私立大学を厳しく統制することが許される時代ではなく、私立大学を自由にすべきであるとの持論を展開した。そして羽田委員は、アクレディテーション制度を学び、導入するだけの力を私立大学は有しているのであって、これからはその力をどのように活用すべきかを考える時期であり、私立大学の関係者は自らを自らの手で高めていかなければならないと力強く発言した。
最後に筆者自身の感想を若干述べておきたい。第1に、すでに触れたように、大学評価制度には、それがアクレディテーションであるか否かにかかわらず、異議申立て制度を組み込むことが必要である点は繰り返し指摘されるべきである。具体的には、評価者に対する何らかの評価制度が求められること、そして制度そのものに対する評価、すなわち政策評価を実際に機能させなければならない。第2に、とりわけ教育評価の制度化を考慮するのであれば、中等教育段階以前において実施されている各種学校評価制度についての研究も並行して行い、その知見も有効に活用することが望ましい。鋤柄研究員がいみじくも指摘したように、各国の大学評価制度は実際には教育機関全体の評価制度と直接間接に関連している場合が少なくない。翻って日本の大学評価制度研究や実際の評価システムにおいては、こうした視点が必ずしも活かされていないように感じられる。
以上、私学関係者の中にある危機感は相当なものであることが感じられ有意義な時間を共有できたと同時に、目前に迫った国立大学改革の急速な進展状況を踏まえると、私立大学における大学評価に関する改革に残された時間はあまりなく、しかも克服すべき課題は山積していることを痛感させられる研究会であった。