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アルカディア学報

No.725

大学教育の理念を実現することこそが大学教育改革である

研究員  羽田貴史(広島大学・東北大学名誉教授)

幼稚すぎないか大学教育「改革」論

 すべての学生が人類の知的財産である学問・芸術・文化を身に付け、個人・社会人・職業人として充実した人生を送る基盤を育てるのは、大学教員の究極の目標である。
 ところで、現在、大学教育「改革」とされているものは、①知識よりもコンピテンシ―、②研究指導ではなく講義の改善、③学生の学習時間の増加を進めることが重視されている。これらは、最高学府の教育改革としては幼稚すぎないか。大学教員は、学生を能動的で主体的かつ研究マインドを持った学習者へ成長させようと様々工夫を凝らす。学生も、ゼミや研究室指導での発表や正課教育の枠にとどまらず、学ぶことで成長している。東大大学経営・政策コースの『大卒職業人調査』(2009年)では、79.8%の学生が研究室指導を経験し、そのうち20.2%が「とても重要」と回答し、「授業に関連した学習」の18.2%より高い。また、『全国大学生調査』(2009年)では、在学中に卒業研究に力をいれた学生の方が、専門教育に力を入れた学生よりも「得たものは非常に大きい」と回答している。
 そもそも、米国学生の学習時間と比べて日本の学生は勉強していないとし、政府関係審議会でも引用されるが、米国大学生学習時間は授業時間を含み(American Time Use Survey)、日本は授業時間を含まず、「これはデマだと言ってよい」(畠山勝太「『アメリカの大学生はよく勉強する』は本当か?実は3人に1人が...」2019年4月2日、講談社現代ビジネスHP)という指摘もある。教室内外の学習時間が確保されているかといった形式ではなく、学生が何をどう学び、関心が広がったかという実質が大事である。

自由に学ぶ学生が成長するのは当たり前だ

 実は、先の調査で、大学時代の経験で「とても重要」であったのは、「友人、先輩、後輩との交流」48>7%、「読書」38.4%であり、「授業に関連した学習」を大きく上回る。教員がダメなのではなく、学生に自ら学ぶ機会を与えることが大学の本領であることを示す。青年は教室でのみ学ぶのではない。勉強の虫では困るではないか。大学での「読書」経験が、生涯にわたって有効であることは、矢野眞和『大学の条件 大衆化と市場化の経済分析』(2015年)が示している。大学生が授業にかかわりなく自由に学習することによって成長するものだという理念は力を失ったという主張もあるが、間違っている。

「改革」とは理念を実現することではないのか

 現実には中学レベルの学力も不十分で、丸ごとがリメディアル教育になっている大学もある。しかし、授業に縛り付けられることで学習意欲を削がれる学生もいる。「改革」とは「伝統的な大学の理念」を「大衆化された大学」の中でどう実現するかであり、大学教育のレベルを引き下げて学生を大量生産することを「改革」と呼ぶのは誤用である。すべての子どもに科学の本質を教える「仮設実験授業」や、米国学術研究推進会議の取り組み(『授業を変える認知心理学のさらなる挑戦』2002年)がある。英国高等教育アカデミーが2000年代からLinking teaching and Researchプロジェクトを進めており、最近の有本章『学問生産性の本質―日米比較』(2022年)は、R―T―Sネクサスの重要性を強調している。こうした取り組みを知らないか無視しているのではないか。

伝統的大学の大学教育論にも問題はある

 もっとも、伝統的大学が理念的大学であり、大学教育が目指すものだということではない。東北大学の「性と愛」に関する共同授業で、生物学の名誉教授が、愛とは性欲と同じものだから、「学生時代にムラムラしたら子どもを作れ!」と講演し、仰天したことがある。生物学の知見で人間=動物、性=愛という解釈で文化を論じ、生物>動物>人間>文化という階層ごとに異なった論理や構造を理解していない。自分の得た専門的知識だけで世界を解釈できるという思い込みは、専門分化した研究に支配され、サイロ化した知識構造を再生する大学教育の弊害である。汎用的能力がないからではなく、世界全体の構造的知識が欠けており、自分の狭い知識体系ですべてを解釈できると思い込んでいるからだ。東北大学ではキャリアセンター長も務め、最近、私立女子大学で「キャリア形成論」の非常勤講師をしたが、学生たちは人間が生まれ、成長し、家族から離れて新しい家族を作り、現役から退いた後の人生全体を俯瞰する知識と展望、人生全体の意味と価値を考える力が十分でないと感じる。そもそも教えられていないし、教えていない。
 学ぶということは、実利的な知識を得ることだけではなく、自分と世界に関する見方(世界像)を獲得し、個人・人類の一員として生きる意味を実感することである。コンピテンシー概念や汎用的能力論をいくら持ち込んでも解決できない。

何を学ぶかを大学教育論の基本に

 日本の大学教員は、数学教育(水町龍一『大学教育の数学的リテラシー』2017年)や物理学教育(日本物理学会『大学の物理教育』)など、基礎的な知識体系を学生に習得させるために様々な努力とノウハウを蓄積している。情報科目の必修受験科目など、社会的必要性による学習の提案のみが目立ち、青年が人間として生きる必要性から学ぶべき内容が議論されていない。重要なことは個別の知識を統合し、構造化された知識体系を持つことである。構造化された知識は摩耗しないし、部分解を他の領域に拡大して誤解を固定化することへの予防・解毒作用を持ち、様々な学習と経験を通じて進化し、人生とともに豊かになる。私見では、学ぶべき知識には4つのレベルがある。
 第1は、素粒子・原子・分子>宇宙>惑星>生物>動物≒人間に至る階層的自然世界の構造であり、階層によって存在する法則が異なりながら、全体として秩序ある世界を構成する自然史的世界像を共有することである。世界像は、価値観の土台であり、小笠原正明ほか『現代人のための統合科学―ビッグバンから生物多様性まで』(2012年)やD・クリスチャンら『ビッグ・ヒストリーわれわれはどこから来てどこへいくのか』(原著2014年)のような素材はすでにある。
 第2は、人間は社会を組織してリスクを極小化し、人生を豊かに生きる基盤を拡大してきた。社会は、個人>第一次集団(家族など)>第二次集団(機能的集団)>政治社会(国民国家)>国際社会という階層的構造を持ち、自由を具象化するものとして流通する学術・芸術・文化がある。階層で原理は独自に存在し、社会を統御する全体原理は、市場、政治、倫理である。政治・経済・倫理を統合的に人間の歴史をとらえる社会像を共有したい。日本の大学教育にはイスラム圏やスラブ・ユーラシア圏の知識が欠けていることはロシアのウクライナ侵略で明らかになった。これでグローバル化を論ずるのは滑稽である。J・ブラック監修『世界史アトラス』(原著1990)のような内容は高校生・大学生に学んでほしい(大人にも)。
 第3は、人間が生まれ、成長発達して大人になり、老年期を過ぎて死ぬまでにどのような課題にぶつかって、それを乗り越えていくのか、という個人と家族に関する領域である。生涯発達の視点からの心理学、脳科学、身体発達論、家族社会学、労働社会学、宗教学などを統合し、恋愛・結婚・家族・職業・生活に関する知識を構造的に持つことは、人生において困難にぶつかる時の指針となるだろう。このイメージにもっとも近いのは、高校の「発達と教育」の教科書だが、受験校では使わない。
 第4は、人間がものを認識し、思考し、価値判断を行い行為すること―つまり自らを対象化する知識体系であり、論理学・認識論・価値論・自由論・意思論である。絶対神のもとで神の秩序と人間の自由意志による作為の正当性を1000年以上にわたって苦闘してきた西欧キリスト教世界の思弁を、それがもたらした科学技術のような実用主義的成果だけでなく理解したい。
 以上は、難しくてできないかもしれない。しかし、それは、私たちがサイロ化した知識体系にとらわれ、実学的価値観に染まっている証かもしれない。知識体系相互の対話(dialogue)、議論(discussion)、論争(debate)を通じて、伝えるべき知識体系を新たに構想する努力なしに―人類の生み出した知的財産への尊敬なしに―学生調査と統計分析による結果が大学教育改革の指針などというなら、そこには改革の精神が欠けている。