アルカディア学報
基準認定の意味と役割―米国の大学評価事業に参加して
私学高等教育研究所ではかねてより日本私立大学協会から「私学の特性に配慮した大学評価システムの在り方」の研究を委嘱されているが、この研究の一環として、2002年3月10日から23日まで、米国の代表的な大学評価システムであるアクレディテーションの仕組みや実態の調査を行った。西部では西部地区基準協会(WASC)をはじめとして、スタンフォード大学やカリフォルニア大学バークレイ校、カーネギー教育振興財団などの専門家から意見や情報を得た。東部では100年余の伝統をもつ全米最古のニューイングランド基準協会(NEASC)で、まず我々のために同協会が特別に設定してくれたワークショップに出席した。これは同地区のアクレディテーションの全体像の説明と、これから訪問する個別大学の関係者や専門家を招いて、予備知識を提供するための集中研修にあたるものであった。我々は二班に分かれ、うち二名(筆者、伊藤敏弘私大協会主任)はすでに評価を終えた四大学を訪問し、その体験や効果等についての見解や事情を聴取した。また他の2名(羽田積男、鋤柄光明両研究員)は実地評価団の訪問校にオブザーバーとして参加し、3泊4日にわたる評価活動を体験観察した。
百聞は一見に如かずというが、実地体験は百冊の文献に勝るというのが率直な印象である。私は1980年代末にコネチカット州の公立大学の実地評価団にオブザーバー参加の機会を得、その経験を通じてアクレディテーションのなんたるかが理解できたとの実感をもったが、今回はじめて参加した羽田、鋤柄両氏ともまったく同じ印象をもったという。両氏の体験は本欄に引き続き報告される予定なので、ここではアクレディテーションの全体像を、私が訪問した他大学における評価活動の体験や成果もおりまぜて報告したい。
アクレディテーションは、①大学の質の保証と②改善への刺激という2つの目的をもつが、その目的を政府や外部者の監督や規制でなく大学自身で自律的に達成しようとするというところに特色がある。そのため大学が共同出資して基準協会という団体を結成し、大学の集団的自治、いいかえれば学問の専門職による自己規制によって自己の質を守り、その自律的な質の保証と社会からの信頼性によって政府ないしは外部勢力からの干渉を排除しようとするのである。したがって基準協会は非政府的団体(NGO)であり、自弁による非営利事業(NPO)であり、教育・研究に直接責任を負う専門職同業者による自発的な活動(ボランタリズム)という性格をもっている。基準協会は大学の自立性を確保するためにすべて会員校の拠出金(各校の会費額は学生数で算定される)でまかなわれ、政府からの補助金は一切受けない(ただし民間財団等からは援助を受けることがある)。基準協会のスタッフはおおむね少数で、フルタイムの専門職と非常勤をいれても10人に充たず、予算は年間100万ドル前後(約1億3000万円)で、その規模は全米六か所におかれているいずれの基準協会も大差ない。
アクレディテーションはもともと大学と高校の水準を評価し、学生の教育の質を確保する目的から成立したから、教育面の評価を中心としている。研究面の評価は学界や産業界から日常行われているが、教育評価は実施困難でもあり、自覚的な取り組みを必要とするとの認識からである。研究評価とはちがってアクレディテーションはモデル大学のアカデミック・スタンダードを基準として優劣の評定や序列化を行うのではなく、個別大学の教育目的やミッションをいかに達成しているかという観点から、特定の基準を充たしているか否かを判定する。判定は合否のいずれかだけであって、優劣や序列化は行わない。
NEASCは19世紀末に結成され、すでに100年余の伝統をもっている。最近の傾向としては、評価の対象・方法は定量的評価から定性的評価へますます移行しつつあることである。そこには評価の基準を数量におくことがさまざまな弊害をもたらしていることに対する反省がある。例えば基準協会が要求する自己研究報告(セルフスタディ)も100ページ以内にまとめるようになっている。それはできるだけ多くの関係者(基準協会、実地評価団、学生も含めた大学関係者全員)に読みやすくという配慮からであるとともに、いたずらに量を誇示する傾向への反省もあると思われる。また膨大な自己研究作業のなかから重要な問題にしぼることがかえって大学の本質を明らかにすることにつながるという面もある。
繰り返すが、大学評価の基準はあくまでも絶対的な価値を画一的に設定するのではなく、大学が学生に公に約束している目的を達成しているのか否かが、あらゆる観点から検討される。例えば実務的専門家の養成が教育目的とされていれば、カリキュラム、教員、教授方法、施設設備等が、その目的にそって整備され、これを達成するような教育が実践されているか、それが学生や外部社会からどう評価されているかが徹底的に追及される。つまりある学科には何人の教員と何冊の書物が必要かという定量的指標ではなく、教育目的を達成するだけの人的物的資源と努力がなされているか否かを専門職の見識で判定するのである。したがって評価の専門知識の持ち主を養成する必要があり、同協会ではすでに数百人をこえる訓練や経験をもった評価者の蓄積がある。しかも彼らはみな加盟校の教職員で報酬を受け取らないボランティアである。
評価を受ける大学側では年余にわたる準備が必要とされる。セルフスタディを担当する教務担当専門職は基準協会の研修を受け、11の評価項目にあわせた作業委員会をつくり、それぞれ、ミッション、教育、学生、教員、財務、情報、施設等々の分野の報告をまとめ、全学で学生も含めて討論する。その結果をまとめたセルフスタディレポートが関係者に配布され、やがて実地評価団の訪問を待つ。これはたいへん膨大な時間、人員、カネの投入をともなう事業である。
この大学全体の評価に加えて、さらに専門分野のプログラム・アクレディテーションがある。訪れたウエントワース工科大学では工学系のプログラム・アクレディテーションを各学科が交互に受ける予定で、そうなると二年毎に実地評価団を受け入れ、準備は毎年しなければならず、きわめて多忙であるといっていた。そんなにまでしてアクレディテーションを受けることの意味はなにか。
ひとつは基準認定に合格しなければ連邦政府の学生援助や研究援助の受給資格を失ってしまうという差し迫った必要性からである。しかしいまひとつは、そうした利害からはなれても、大学関係者の間における自己改善に果たすアクレディテーションの役割に対する信頼が明らかにみられた。実際、アクレディテーションがあるからこそ、アメリカの大学はたえず自己改革の契機が与えられ、そのことが自己を強化することにつながるという信念が訪問したほとんどの大学関係者から表明された。そこには大学を知り、大学の価値を守るのは自分たちであり、そのためには大学の集団的自治と自立性の砦である基準協会を通じて厳しい自己評価を行い、世間の大学に対する信頼を勝ち取っていくほかないという哲学とギルド意識のようなものが感じられた。
アクレディテーションは米国特有の歴史や土壌のなかから成立してきた評価システムで、さまざまな問題もはらんでいる制度でもあり、これをそのままの形で日本に移入することは不可能でもあり、現実的でもない。しかし大学が、とりわけ私学がその政府からの独立と自治を確保しようとするのならば、自らの力で私学の質を守り、世間の信頼を獲得していく方法やシステムをつくりだしていくほかはない。オランダや韓国は米国式評価を取り入れながら自国に適合した制度を長年にわたってつくりあげてきた。日本でも大学基準協会の戦後直後からの実践もある。大学の自己評価に対する不信の高まりと第三者評価の推進が一層広まりつつある今日、大学が自己評価と自己改善のシステムの確立に成功し得るか否かは、日本の私学の独立を勝ち取れるか否かの重大な瀬戸際であろう。