アルカディア学報
授業料“無料”の戦略―ペン大医学部の大学経営にみる
<ペン大学医学部の快挙>
つい最近、在米生活30年以上という風早正宏さんから、ペンシルベニア大学医学部の授業料に関する情報をいただいた。風早さんは、日米企業の技術顧問をされている方で、もともとは技術博士だが、ペンシルベニア大学の経営大学院(ウォートンスクール)エクゼグティブコースの一期生であり、自らも長らく同大学院の学外講師として教壇に立っておられた。2人の息子さんもペンシルベニア大学医学部の卒業生で、そのうちのお1人は、現在、同大学医学部の助教授である。
風早さんから伺った話は、日本の大学では、とうてい実現できそうもない話だが、非常に興味深い内容なので、ここに紹介する。
<10年間で全学生分の財源基金を集める>
ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania 以下ペン大)はアイビーリーグの有名私立大学である。そして、その医学部は、アメリカで最も歴史が古く、研究と教育両面で世界トップレベルのメディカルスクールとして、全米は勿論、世界から優秀な学生を集めている。話は、その医学部の授業料を、この1年以内に、すべて無料にしてしまうというものである。奨学金の潤沢なアメリカの大学でも、全学生の授業料を一切只にするという例は、さすがに聞かれない話である。
そもそもの発端は、10年ほど前にペン大医学部で湧き起こった「授業料無料化提案」である。提案は実行に移され、10年たって今年中には達成する目処がついたので、いよいよ実施するというわけである。集めた最終の集金額は未発表だが、その総額は5.5億ドル(1ドル130円の換算で715億円)以上と推定される。
なぜかというと、ペン大医学部の授業料は1年間で1人3万2000ドル(416万円)、1学年の学生数は120人、それが4年間だから、総学生数は480人、学費の総額は年間1536万ドル(20億円)となる。かりに2.5から3%の利回りで運用するとして、毎年これだけの財源を生み出すためには、少なくとも5.5億ドル(715億円)の基金が必要となるわけだ。5.5億ドルは、日本の私大全体の助成金3000億円の4分の1に当たる金額である。一私立大学の一学部だけで、10年間とはいえ、これだけの基金を集めたのだから、これはたいへんなことだ。しかも、基金は、入学生に割り当てるなどというようなことは一切せずに、すべて医学部の教授、付属病院の医者、卒業生、企業、慈善団体から集めた寄付金である。
<政府からの干渉を排除して学生を選ぶ>
そもそもなぜ、ペン大医学部で授業料無料化運動が起こったのか。そこが非常に興味深いところである。目的は3つあった。1つは学部自治。政府に干渉されることなく、学部として採用したい学生を入学させるためである。
医学部は授業料が高いため、多くの医学生は学費と在学中の生活費を学生ローンとして借りることになる。学生ローンは、通常、政府が支給、あるいは銀行保証する資金を、大学が政府に代わって学生に配分する。しかし、この政府資金を大学が受け取るためには、入学定員の中に、黒人やヒスパニックなどマイノリティーのために一定の定員枠を設けなくてはならない。しかも、この枠は毎年充足させる義務があって、たとえ学力がどんなに不足していても、枠一杯までは入学させなくてはならない。最近は、逆差別だという裁判があり、だいぶ緩和されているが、十数年前は、この点に関する政府の指導は非常に厳しかった。
ペン大医学部は、アメリカ建国以前から存続する伝統私学である。誇り高く、ひときわ自治意識が強い。しかも、昔から人種平等を基本方針としてきた。だから、今更ながらの政府指導の押し付け人種啓発施策などは受け入れ難い。あくまでも自分達の判断で入学生を選ぶべきだという議論が湧き起こった。そのためには授業料を一切無料にして、政府のヒモ付き資金を排除するのが第一だという結論になった。こうして、その実現に向けて基金募集が始まったのである。
2番目の目的は、学生が興味や適性に沿って自由に専門分野を選択できるようにするためである。ペン大医学部の今年の発表によると、医学生1人にかかる授業料、本代、下宿代、食費などの年間総費用は約5万ドル(650万円)である。それが通常は4年間だから、卒業までのローンは20万ドル(2600万円)に達する。卒業後就職して家を買い、自動車を買うと、このローンに在学時のローンが重なって、まるで住宅ローンを二つ抱え込んだようになってしまう。そこで学生は、どうしても収入が多い専門分野を選ぶようになる。眼外科、耳鼻咽喉外科、整形外科などに希望者が殺到して、社会が多くを必要とする内科、家庭医、一般外科などは収入が低いと敬遠される。これでは伝統ある医学部として、社会的責任を果たすことができなくなる。そこで、金銭問題を取り除いて、自由に専門が選べるようにしようというのである。
3番目の目的は、学部の特異化、差別化である。ハーバード大学やプリンストン大学でもやらないことをやって、絶対的な競合優位性を打ち出し、世界中から最優秀の学生を集めようという、「授業料無料」の募集戦略である。
<学費は大学経営の政策であり戦略である>
何とも、実に思い切った計画である。いくら、アメリカが自主と独立を尊ぶ国とはいえ、授業料を只にしてまで、それを守ろうとするのは、日本人からすれば尋常とは思えない発想である。「金は出しても口を出すな。それが"大学の自治"である」というのが大方の日本の大学人の考えではないだろうか。だが、アメリカでは、「金を出すからにはコントロールも止むを得ない。それが嫌なら財政的に独立すべきだ」となる。もし、直ちにそれができないなら、将来自立できるように、しっかり準備しろというわけだ。こうした強烈な自主の精神があるからこそ、日本の私学とは比較できないほど強い財政基盤を作り上げることもできたのだろう。
最近、日本でも、ようやく授業料が個々の大学の重要な政策として見直されてきた。どんぶり勘定、横並びで決めていた価格は、まがりなりにも学部ごとにコスト計算したり、他大学との競合関係に照らしたりと、合理的、戦略的に決定するような動きが出てきた。近くスタートする長期履修制度やパートタイム学生制度の導入も、こうした動きに拍車をかける。単位ごと、費目ごとに分解して授業料を設定しないと、新しい制度では整合性がとれなくなる。きちんと内容説明ができるものへ授業料を変えていかないと、学生が納得しそうにない。自腹でくる社会人学生や留学生が増えてくればなおさらである。
ことは授業料の額や中身だけではない。徴収の仕方や徴収の時期、さらには支払い免除やディスカウント、奨学金やローン、寮や住居、学内アルバイトやSA、TAなどの特典も含めて、学費というものを総合的に捉える必要がある。これから、学費は、大学経営の政策的、戦略的な要となるだろう。今、そのことを意識して準備している大学がどれだけあるかは、心もとないかぎりである。