アルカディア学報
大学間のヨコの連携・共同とネットワークの時代の到来か?
最近大学間の単位互換、複数大学の連合体や「コンソーシアム」の組織化、大学の合併・統合の構想や計画、大学と短大・専門学校の提携や学生の相互間移動など、学校と学校の間をヨコにつなぎ、ネットワーク化をめざす新しい動きが出てきている。学校同士の連携だけでなく、地域社会や企業等との産学協同や連携、就職前の学生のインターンなどの学生の移動も盛んになってきている。情報技術や遠隔教育の発達がこれに輪をかけて、時間・空間を超えた連携をも活発化している。
これまで一向に動きそうにみえなかった国立大学同士でも、複数の単科大学が単位互換のみならず併合や統合の構想が出てきており、これは近く予定されている国立大学の独法化をにらんで、少しでも規模を大きくし、足腰を強めておこうというねらいから出ているのであろう。
こうした動きは、ネットワーク化とか提携・連合化といったキーワードに表現できるとすれば、あるいは日本の高等教育の新しい方向の予兆を示すものかも知れない。
戦後、日本の高等教育機関は、新制大学の発足期における大幅な合併統合を除いては、いわば日本のタテ社会の構造と高度成長型の経済を反映して、もっぱら自校を強化拡大し、いわばタテ型の成長を志向してきた。たとえば多くの地方国立大学にとってはモデルは旧制帝国大学であり、自校の個性化を目指すよりは、少しでも旧帝大なみになること、なんでも東大にあるものはすべてそろえようとする「ミニ東大化」になりがちであった。それは、自前ですべてをそろえた横並び式の「総合大学」を理想とする巨大化志向である。
一方、建学の精神に基づいて設置された学校法人も、国公立では果たせない理想を追求する個性あふれる大学も生まれる一方で、同時に自己完結型の総合大学への巨大化志向も強かった。高校から短大へ、短大からは四年制大学への昇格を、さらには学部の上に大学院をと、規模の拡大と格上げを志向してきた例が少なくない。巨大な学校法人は、大学生予備軍のプールとして全国に付属の中学、高校を設置し、その上に受け皿となるブランチ・キャンパスから成る一大コングロマリット(巨大複合企業)を形成して、もっぱら成長拡大路線を追求してきた。
もちろんこうした努力はあらゆる学校の共通の特徴であって、そこから教育の発展や機会の拡大がもたらされたのである。ただし、こうした方向は、これまでの学生増や経済成長に基づく拡大主義路線が可能であった時代を前提としてはじめて可能であったのではなかろうか。だからこうしたタテ社会的構造の日本の高等教育に、いま起きつつある変化は、ヨコ志向の連携協力という新しい変化の兆しとみることができるかも知れない。
大学が存続・発展していくためには、学生を、とりわけ自校にあった学生を集めなければならない。よい学生をひきつけるには、優れた教授陣、魅力的なカリキュラム、美しいキャンパスや高価な施設設備も備えなければならない。その上で、学生にはこの学校に来たことに満足して卒業させ(そうでなければ保護者や学生がどうして高額の学費を支払い、卒業生が大口の寄付をしてくれるだろうか)、社会にはその大学卒の値打ちを高く評価してもらわなければならない。そうしたプロセスを通じて学校の名を高めていくには、いうまでもなくヒトやモノや手間がかかる。
しかし、青年人口の減少や経済不況、財政逼迫の時代に、ひとつの大学だけでは、ヒトもカネもモノも入手することに限界があると悟ったとき、それでは互いに学校が協力しあって、あくまでも自校の個性は守り、共通にできるものは共用しながら、1校だけではできない統合された魅力を発揮するにはどうしたらよいか、という発想が生まれた。これがコンソーシアムとか提携連合といわれる、いまふうにいえばネットワーク化のはしりである。
たとえばアメリカの高等教育における最初のコンソーシアムといわれるカリフォルニア州のクレアモント・カレッジ(Claremont Colleges)には、5校の学士課程のカレッジと一校の大学院が、通学可能な広さのキャンパスに置かれている。コンソーシアムの主導者となったリベラルアーツ系のポモナ・カレッジは、1920年代に当時のブレイスダル学長がイギリスのオクスブリッジの小型カレッジを模した計画を推進した。当時の教授団や理事は、いかにして小規模カレッジの人間的ふれあいという価値を保持しながら、総合大学としての「学徒の共同体」への欲求をも満たすかという問題に直面した。そこで選んだ道は、自校を大規模化した総合大学にするのではなく、それぞれが自前の理事会、キャンパス、建学の精神をもった独立したカレッジ5校と、大学院センターをその後40年にわたってクレアモントの理念にそって、創っていくことだった。そして現在、それぞれリベラルアーツ、人文の女子大、政治経済学、理工学、社会科学を専攻とする5校のカレッジと1校の大学院からなるコンソーシアムに成長している。そこでは5,000人の学生たちが、別々のカレッジに属しながら、あたかもひとつの大学のように図書館を共用し、2,200にわたる授業科目を履修し、取得した単位を互換しあい、学寮で教師とともに生活し、毎月150を超える行事に参加している。
日本の大学コンソーシアム版では、たとえば代表的な実践例では財団法人大学コンソーシアム京都がある。市内の40校の大学・短大が主として教養教育の授業を公開したり、出前講義として提供したり、共同講義を設定したりして、履修した学生に単位互換を認めるといった事業を行っている。教育面に限らず京都の産官学交流や共同研究などの提携・連携のコーディネートも行っている。これは確かにヨコのネットワークの画期的な試みとして注目される。
ただしクレアモントのように最初からひとつの理念の基に計画的に大学共同体を形成していったのではなく、既成の学校の体制には変更を加えずに、そのままの形で連携していることである。たとえば単位の互換にしてもカリキュラムの全体構造のなかで各校の授業科目をどう位置づけるかという点があいまいなままに、各校の得意科目をアラカルト方式で学生に履修させることになり、必ずしも学生の教育の必要性という論理よりは京都から学生を離れさせないための地域社会と大学との生き残り策という印象もぬぐえないのである。
東京の国立単科大学5校の「大学連合」についても、それぞれの特徴をもった大学同士が授業を公開し単位を交換しあうことは、それ自体結構な構想である。しかし国立大学の独法化問題とからんで出てきたタイミングをみると、これまた必ずしも学生の教育の観点から出てきたものかどうか疑問が残る。単位互換は単に自校にはない新奇な科目をアラカルト式に学生に履修できるようにすれば足りるのではなく、その背後に全体構造をもつカリキュラム論が必要不可欠になるのではないか。そうでなければ学生は一貫した大学教育の理念にそって自己の経験の中に統合していくことはできないだろう。それに学生にとって通学しがたいような物理的な時間や距離の問題をどう克服するのか。いくら光ファイバーやインターネットがあるといっても、それだけでこの問題を克服することは困難であろう。